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よきひと [『教行信証』「信巻」を読む(その35)]

(4)よきひと


 三つ目の文に「このゆゑに信・聞およびもろもろの善友の摂受を具足して、かくのごときの深妙の法を聞くことを得ば、まさにもろもろの聖尊に重愛せらるることを獲べし」ということばがありました。これは上に見てきましたように、本願に遇うことができた人は「如来とひとし」い人として諸仏如来に重愛されるということですが、そのとき「信・聞およびもろもろの善友の摂受を具足して」と言われていることに注目したいと思います。「信・聞」はいずれも本願の「こえ」を信受するということですが、それに加えて「もろもろの善友の摂受」と言われていることの意味を考えてみたいのです。


『歎異抄』第2章にこうあります、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。この「よきひと」こそいまの「善友」ですが、これは本願に遇うこと、本願の「こえ」を聞くことは、直接ではなく、「よきひと」=「善友」を通じてのことであることを教えてくれます。本願は何か摩訶不思議な「こえ」として天から降ってくるのではなく、「よきひと」=「善友」の口から届けられるということです。親鸞は法然の口から出た「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せを通して本願の「こえ」を聞くことができたのです。


なぜ「よきひと」を通じて本願の「こえ」が聞こえるかといいますと、その「よきひと」自身が本願の「こえ」を聞いている人であるからです。すなわち「よきひと」とは信心の人であるからこそ、その人の仰せを通じて信心を得ることができるのです。さて信心の人とは曽我量深氏的に言いますと、その人のなかに如来が法蔵菩薩として降誕した人のことでした。としますと「よきひと」とは法蔵菩薩のことです。ですから「よきひと」を通じて信心を得るということは、法蔵菩薩に遇うことを通して自分のなかにも法蔵菩薩が降誕するということに他なりません。


ある人に法蔵菩薩が降誕し、その人を通じてまた別の人に法蔵菩薩が降誕するという形で信心は次々と受け継がれていくことになります。



タグ:親鸞を読む
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