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涅槃をめざす旅 [はじめての『尊号真像銘文』(その158)]

(8)涅槃をめざす旅

 もういちど「涅槃を得ることにさだまる(正定聚)」、「涅槃を得たにひとしい(等正覚)」に戻ります。そして本願名号に遇うことができて正定聚となり等正覚となることを、あらたな旅のはじまりと考えてみたいと思います。
 この旅は涅槃をめざす旅です。普通の旅の場合は、めざす目的地に行きつける保障はありません。途中でどんなトラブルが待ち受けているか分からないからです。しかしこの旅は違います。もうかならず涅槃に行きつけることが定まっています。旅のはじめから涅槃のひかりに照らされているからです。涅槃そのものはずっと先ですが、そのひかりはもう届いているのです。だから涅槃を得たにひとしいのです。涅槃をめざしながら、その一歩一歩がもう涅槃を得たにひとしい。
 二河白道の譬えでいいますと、白道に一歩ふみ出した旅人(正定聚であり等正覚の人です)には東の岸から「きみただ決定してこの道をたづねてゆけ、かならず死の難なけん」という声が、そして西の岸からは「なんぢ一心正念にしてただちにきたれ、われよくなんぢをまもらん」という声が聞こえています。この声がしている以上、この旅人は涅槃を得ることに定まっているのであり、涅槃を得たにひとしい。
 さてしかしこの白道の北にははてしなく水の河が広がり、南側は火の河が燃え上がっているのですから(これは貪愛と瞋憎を譬えています)、貪愛の水波と瞋憎の火炎が襲ってくるのをかいくぐりながら進まなければなりません。涅槃の白道に一歩踏み入ったのだから、もう何も心を煩わせることはなくなるというわけではないのです。貪愛や瞋憎に足をすくわれないよういつも心を配っていなければなりません。
 それを自力作善ではないかと疑いの目を向けるのは、本願名号に遇う前とその後の区別を無にするものです。自力作善ということばは、まだ本願名号に遇うことができていないときに、万行諸善により何とかして本願名号をゲットしようとすることに言われるのですが、白道に入った人はもうすでに本願名号にゲットされているのですから、そのような人に対してこのことばは的外れであると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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