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往相と還相 [『歎異抄』ふたたび(その46)]

(3)往相と還相

 もういちど「教巻」冒頭の文をみますと、「二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」とあり、往相も還相も回向であることが分かります。回向とは元来「回らし、さし向けること」で、自分が修めた功徳を自分や他人の菩提のためにさし向けることを意味します。浄土の教えの場合は、自己の功徳を自分や他人の往生のためにさし向けるということになり、みなそのように了解してきました。ところが親鸞は回向を終始一貫して「如来の回向」と受けとめます。いまの「二種の回向あり」という文も、如来からの回向に二種あり、ということで、如来から往相回向と還相回向がわれらにさし向けられているという意味です。
 親鸞は自分が回向ということばを使う場合だけでなく、経論釈に回向ということばでてくるときにも、それを「如来の回向」と受け取ります。もっとも有名な例を一つ上げますと、第18願成就文の「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん(聞其名号信心歓喜乃至一念)」のあと、「至心に回向してかの国に生ぜんと願ずれば(至心回向願生彼国)」とあるのを、あえて「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば」と読みます。この読みはどう見ても無理があると言わざるをえませんが、至心回向の主語を「われら」から「如来」へと付け替えてしまうのです。
 このように転換することで往相回向と還相回向の関係もまた変化します。回向の主体がわれらであるとしますと、まず往相、そして還相とならざるを得ませんが、それが如来となりますと、そのように考えなければならない必然性はなく、往相と還相が同時に如来から回向されると考えることもできます。われら自身が往生する(救われる)ことは、同時に他の人たちを往生させる(救う)ことになるということです。往相がそのままで還相であるということになります。

タグ:親鸞を読む
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