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12月30日(日) [はじめての親鸞(その3)]

 それから間もなく神戸の少年A事件が起こりました。
 ぼくには事件そのものよりも、それに関するシンポジウムの場でひとりの高校生が「なぜ人を殺していけないのか分からない」と発言したことに衝撃を受けました。ああ、ここにも過剰なものを求める青年がいると思ったのです。
 なぜ人を殺してはいけないのかを問うのは過剰なことです。日々の平穏な時間は「人を殺してはいけない」ことを織り込んで流れているのです。そこにあえて「なぜ」と問うのは過剰です。平穏な時間をかき乱す不埒な行為です。そのとき、パネラーの一人が「そういうことをおおっぴらに問うのははしたないことだ」と言ったそうですが、過剰なことははしたないのです。
 ぼくはと言いますと、もしぼくが教えている高校生がこんな問いかけをしてきたら、どう答えればいいだろうと真剣に考えました。
 よくある答えは「人を殺してもいいとなったら、自分自身が殺されても文句言えなくなるから」というものでしょうが、これはこの問いを発した高校生には全く無効でしょう。こんな問いをもってしまった者は、自分が誰かに殺されたって構わないという地点に立っているからです。
 つまり彼は自分がどうして生きているか分からなくなっています。自分がなぜ生きているのか分からなくなったら、他の人間がなぜ生きているかも分からない。そこからなぜひとを殺してはいけない分からなくなるまではほんの一歩でしょう。

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