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はじめに(11) [「親鸞とともに」その107]

第11回 死ぬということ

(1)はじめに

前に「生きる意味」について考えましたが、今回は死について考えたいと思います。しかし「死ぬ意味」は何かと問われることはまずありません。生きることには意味があるが、死ぬことに意味などないと思われているからです。生が有意味であり、死は無意味であると思われているのはきわめて自然であり、逆に死にこそ意味があるなどと言われるときはよほど警戒しなければなりません。それは狂気のなせるわざか、さもなければ背後に何か策略が隠されているに違いないからです。

もちろん、死にたいと思うことはあり、実際多くの人たちが自らいのちを絶っているのですが、その場合も死ぬことに意味があると考えているわけではないでしょう。生きることに意味が見いだせず(自分で見いださなければならないと思っているのに、それが見当たらず)、生きる苦しさを堪え忍ぶくらいなら、死を選ぼうと決意するのです。死そのものは無意味ですが、しかし生の無意味(くどいようですが、生に意味を見いだしたいのに見いだせないということ)と比較して、あえて死の無意味を選んでいるのです。

このように死そのものに意味(価値、目的、理由)があるのではないとしますと、なぜ死について考えなければならないのでしょう。

それは死を望んでいるわけではないのに、それはかならずいつかやってくるからです。そのいつかやってくる死をどう迎えればいいかということを考えざるをえないのです。考えようが考えまいが、いつかかならずやってくるのですから、そんなことを考えないようにする方がいいのかもしれません。いや、実際のところ、誰しも死のことをいつも考えているわけではなく、とりわけ若い人たちは死などほとんど意識することがないでしょう。しかし如何せん、死はむこうからわれらに考えるよう迫ってきます。

親鸞は「いささか所労(病気)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」(『歎異抄』第9章)と言いますが、死にとうないのに、死が迫ってくるという形で、否応なく考えざるをえなくなるのです。


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