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かの仏の願に順ずるがゆゑに [「『正信偈』ふたたび」その102]

(4)かの仏の願に順ずるがゆゑに

法然は「ただ念仏により」往生できると信じることに薄皮一枚の躊躇いがあったのに違いありません。源信は雑修ではなく専修により報土に往生できるというが、その根拠はどこにあるのだろうかという疑いが晴れきらない。

そんな法然のこころに、あるとき「かの仏の願に順ずるがゆゑに」ということばが飛び込んできたのです。これが法然を啓示のように打ったからこそ法然は決然と山の生活を捨てることができたのです。このことばの意味は「それが本願の心だから」ということですから、それだけ見ればどうということはないと思われるかもしれません。しかしこれは単に「本願はそのようになっているのだから、その通りに信じればいい」ということではありません。そもそも、そんなふうに言われても、人間そうたやすく「そうですか、では信じましょう」となるものではありません。

法然がこのことばを受けて決然と行動に移せたのは、このことばを通して本願そのものが法然の心にやってきたからです。

「いのち、みな生きらるべし」という「ほとけのいのち」の「願い」が法然の心にドスンと届いたのです。そのとき本願と法然の心は「ひとつ」になっています。そしてそのとき「念仏申さんとおもひたつこころ」が起こるのです。これが専修ということばのもっとも深い意味です。このことばの表面的な意味は、他の行に目を向けず、ただひたすら念仏を行じるということですが、それでは、どうして念仏だけが往生の行で、他の行はそこから除かれるのかという問いに答えることができません。法然が一歩を踏み出せずにいた根拠がそこにあったことは先に述べた通りですが、ここには実は自力と他力の分水嶺があるのです。ただ念仏行のみか、他の行もかという問いは、自力の土俵に立って発せられていますが、しかし問題の本質は自力の土俵に立つか、それとも他力の土俵に立つかということにあります。

自力の土俵にいる限り、死ぬまで疑いのこころから離れることはできません。自力のこころとは疑いのこころですから。本願そのものがわが身にドスンとやってきて、自力のこころから離れることができますと、そのとき「念仏申さんとおもひたつこころ」がおこり、その人のこころはもう報土にいます(「真実信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」)。しかし自力のこころで雑修する人は、どこかにあるであろう「ほとけのいのち」を求めて彷徨うばかりです。


タグ:親鸞を読む
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