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至心・信楽・欲生と [親鸞の和讃に親しむ(その18)]

8.至心・信楽・欲生と

至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ 不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする(第58首)

至心・信楽・欲生と、弥陀はわれらに勧めつつ、不思議な誓いたててこそ、われらの往生定まりぬ

第18の願、「至心信楽の願」を詠います。この願は古来「念仏往生の願」とよばれ、四十八願のなかでももっとも重要な願、「王本願」とされてきました。その名は「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじ(十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚)」とある中の「乃至十念」に着目し、たった十回の念仏で往生できるとする願と捉えられたことによります。しかし親鸞は「至心信楽、欲生我国」の方に目を向け、「待っているよ、いつでも帰っておいで」という如来の願いに気づき(これが至心信楽です)、「帰りたい」と往生を願うこと(これが欲生我国)を勧めている願とみたわけです。如来がわれらの往生を願ってくださっていることに気づき、「ああ、帰りたい」と思うだけで、真実報土に往生できるのだということです。

では「乃至十念」はどうでしょう。上に述べましたように、第18願は伝統的に「たった十回念仏するだけで往生できるとは煩悩具足の凡夫にとって何と有り難い教えか」と受けとめられてきたのですが、親鸞はこの「乃至十念」をどのように了解したのでしょう。それは、「待っているよ、いつでも帰っておいで」という如来の願いに気づき、「ああ、帰りたい」と思ったとき、その思いはおのずから「ありがとうございます、帰らせていただきます」という声となって迸り出るということです。それが「南無阿弥陀仏」の称名です。したがって「真実の信心はかならず名号を具す」(『教行信証』「信巻」)のです。しかし「名号はかならずしも願力の信心を具せず」(同)で、「いつでも帰っておいで」という如来の本願の「こえ」が聞こえていないのに、わがちからで名号を称えることにより往生を得ようとする場合があります。それについて親鸞はこう言います、「念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ」(『歎異抄』第8章)と。


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