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仏ましませどもはなはだ値ふことをうること難し [『教行信証』精読(その42)]

(5)仏ましませどもはなはだ値ふことをうること難し

 世に優曇鉢樹があるものの、華を咲かせるのは三千年に一度といわれるほど稀であるように、世に仏がましましても、仏に「値(もうあ)ふ」ことははなはだ稀であり、難しいことだと言われます。「値ふ」は「遇ふ」と同じ意味です。ふたつ重ねて「値遇」と言うこともありますが、「あるとき思いがけずあう」ということです。先回の最後のところで本願に遇うことの独特の難しさについて考えましたが、ここであらためて仏に遇うことがどうしてそれほど難しいのかについて思いを廻らせたいと思います。
 「会う」ことの難しさと「遇う」ことの難しさはまったく別です。
 ある人に会おうとしても、とても難しいということはよくあることです。たとえば天皇に会おうと思っても、そうたやすく会えるものではないでしょう。あるいは内閣総理大臣に会うのも簡単なことではありません。でも、本気で真剣に会いたいと思えば、そして必要な手続きを踏む努力をすれば、会えないわけではないでしょう。天皇や総理大臣はどこかにいるのですから。ところが仏に遇うことの難しさは、天皇や総理大臣に会うことの難しさとまったく別種の難しさです。
 その違いをひと言でいいますと、天皇や総理大臣は会う前からどこかに存在していますが、仏は遇ってはじめて存在するようになるということです。
 『平等覚経』には「世間に仏ましませどもはなはだ値ふことをうること難し」と言われていますが、「仏まします」と言えるのはすでに仏に遇った人であり、まだ仏に遇っていない人には仏はどこにもましません。いや、ましまさないということもありません。仏は遇ってはじめてましますようになるのですから、仏に遇っていない人は「仏まします」と言えないのはもちろん、「仏ましまさず」とも言えません。「まします」でも「ましまさず」でもない、何ごともないのです。
 遇ってはじめてましますようになる仏に遇うのは、何とも言いようのない難しさです。この難しさ自体が、仏に遇ってはじめて了解できます。そのときの思いが、これまでずっと遇うことができなかった仏に、いまようやく遇うことができたのは、優曇華の「いましはなのいづるがごとし」というものです。

タグ:親鸞を読む
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