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顕彰隠密(けんしょうおんみつ) [『観無量寿経』精読(その69)]

(2)顕彰隠密(けんしょうおんみつ)

 このようにそれぞれの功徳の差に応じて往生のかたちに違いが生まれるという説き方がされますが(これは九品すべてに一貫しています)、ここには往生(果)は行者の功徳(因)によって左右されるという立場がはっきり出ています。自力の立場です。前回の最後のところで、親鸞は『観経』(と『小経』)は人々を真実の教え(それは『大経』にあるとされます)に導くための方便の経であると考えたことに触れましたが、その点についてもう少し踏み込んで親鸞の考えをみておきましょう。
 「化身土巻」で親鸞はこう言っています、「釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義(文の表に顕われた意味と裏に隠れた意味)あり。顕といふは、すなはち定散諸善(定善と散善)を顕し、三輩(上輩・中輩・下輩)・三心(至誠心・深心・回向発願心)を開く。しかるに二善(定善・散善)・三福(行福・戒福・世福)は報土の真因にあらず。諸機の三心は、自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕(ごんぼ)浄土の善根なり。…すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢(えんちょう、広く説く)す」と。
 短い文章に多くのことばが詰め込まれ、すんなりと頭に収まってくれませんが、要するに『観経』には顕の義(外にあらわれた教え)と彰の義(内に秘められた教え)があるというのです。顕の義では、仏や浄土を観る定善とさまざまな善行をなす散善が説かれ、あるいは三福や三心が説かれていますが、それらの教えはあくまでも方便であり、真のねらいは彰の義、すなわち弥陀の本願による往生を説くことにあるということです。顕の義では(見かけの上では)行者が万善諸行をすることにより往生しようと願えと説かれていますが、彰の義では(その真の意図は)往生はその因も果もみな弥陀の本願の力によるのだというのです。
 さてしかし、どうしてこんな手の込んだことをするのか、という疑問が浮びます。端的に真実(他力の教説)を説けばいいのに、どうして方便(自力の教説)を説くことにより真実へ導こうとするのか、と。

タグ:親鸞を読む
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