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『一念多念文意』を読む(その49) ブログトップ

本文7 [『一念多念文意』を読む(その49)]

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 また王日休のいはく、「念仏衆生便同弥勒(ねんぶつしゅじょうべんどうみろく)」といへり。「念仏衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」はすなわちといふ。たよりといふ。信心の方便によりて、すなわち正定聚のくらゐに住せしめたまふがゆへにとなり。「同」はおなじきなりといふ。念仏の人は、無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひととまふすなり。
 また『経』にのたまはく、「若念仏者(にゃくねんぶつしゃ)、当知此人(とうちしにん)、是人中分陀利華(ぜにんちゅうふんだりけ)」とのたまへり。「若念仏者」とまふすは、もし念仏せむひととまふすなり。「当知此人、是人中分陀利華」といふは、まさにこのひとはこれ人中の分陀利華なりとしるべしとなり。これは如来のみことに、分陀利華を念仏のひとにたとへたまへるなり。このはなは人中の上上華なり。好華なり、妙好華なり、希有華なり、最勝華なりとほめたまへり。光明寺の和尚の御釈には、念仏の人おば、上上人、好人、妙好人、希有人、最勝人とほめたまへり。

 (現代語訳) また南宋の居士・王日休は「念仏の衆生はすなはち弥勒に同じ」と言われます。「念仏衆生」とは、金剛の信心を得た人のことです。「便」とは「そのままで」ということ、「たより」ということです。信心という「たより」によって、「そのままで」正定聚の位に入らせていただくことができるからということです。「同」は「おなじ」ということです。念仏の人はこの上ない涅槃に至ることができるのですから、弥勒菩薩と同じ人と言うのです。
 また『観無量寿経』に、「もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と説かれています。「若念仏者」と言いますのは、「念仏する人は」という意味です。「当知此人、是人中分陀利華(まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり)」と言いますのは、「その人こそ人の中の分陀利華です」という意味です。これは、如来が念仏の人を白く清らかな蓮の華に譬えておられるのです。この華は、人の中の上上華、好華、妙好華、希有華、最勝華だと善導大師がほめられ、また念仏の人を、上上人、好人、妙好人、希有人、最勝人とほめておられます。

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