SSブログ
「親鸞とともに」その112 ブログトップ

「おかえり」と「ただいま」 [「親鸞とともに」その112]

(6)「おかえり」と「ただいま」

前に「ありがとう」ということばについて考えましたが(第1回「生きる意味」)、今度は「おかえり」について思いを廻らせてみましょう。

「夕焼け小焼け」のなかを帰る子どもたちは、家につくと元気よく「ただいま」と挨拶し、それに対してお母さんから「おかえり」の応答があることでしょう。日常のありふれた光景ですが、さてしかし、この「ただいま」と「おかえり」は本来その順序が逆ではないか。まずはお母さんから「おかえり」という呼びかけがあり、それに子どもが「ただいま」と応答するのが順当ではないかということです。実際、「おててつないでみなかえろう」と歌っている子どもたちの心には、お母さんの「早く帰っておいで」の呼びごえが聞こえているはずです。だからこそ、それに応えて元気よく「ただいま」と帰宅できるのです。もしこの呼びごえが聞こえていない子どもがいるとしますと、あわれ、その子には「ただいま」と帰っていく家がないということになります。

まず「おかえり」があるから「ただいま」があるということ、これを親鸞はいろいろなところで教えてくれましたが、なかでも「南無阿弥陀仏」ということばの注釈(六字釈とよばれます)が光っています。

親鸞が六字釈で明らかにしようとしているのは、「南無阿弥陀仏」ということばは、われらが称えるものだという思い込みがありますが、そうではなく、それは如来の呼びごえであるということです。森ひなという名の妙好人に「となえるしょうみょう われかとおもうた そうでなかった みだのよびごえ ああありがたい なむあみだぶつ」という印象的なうたがあります。「南無阿弥陀仏」はわたしが称えるものだと思っていたが、そうではなかった、それは弥陀の呼びごえなのだという驚きと喜びがうたわれています。「ただいま」と言うから「おかえり」があると思っていたが、何ということだ、まず「おかえり」の呼びごえがあるから、「ただいま」と応答するのだということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その112 ブログトップ