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無量億劫にも値ひがたく [『教行信証』精読(その37)]

(12)無量億劫にも値ひがたく

 気になるもう一つの点は、どうして如来が世に出て「道教を光闡して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんと」するところに出あうことが「無量億劫にも」難しいのかということです。それが「なをし霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし」であるのはどういうわけかということ。親鸞は序に「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく」と述べていましたし、「正信偈」には「弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢悪衆生、信楽受持すること、はなはだもてかたし。難の中の難、これにすぎたるはなし」とあります。「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ」にもかかわらず、その大悲に遇うのがどうしてそんなに難しいのか。
 少し前のところで、こう言いました、弥陀の本願は諸仏の称名を通じて衆生のもとに届けられると(釈迦も諸仏の一人として、弥陀の本願をわれらのもとに届けてくださったわけです)。そしてこうも言いました、諸仏と言っても、何も特別な人のことではなく、弥陀の本願を届けてくださった方は、たとえその方がすぐ横にいるごく普通の人であっても、その人が自分にとっての「ほとけ」であると。としますと「弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく」とされるのがますます不可解となってきます。周りに弥陀の本願を届けてくださる諸仏が満ち満ちておわすはずですから、どうして本願に遇うことが難しいのか了解しがたいと言わなければなりません。
 本願に遇うのが「難の中の難」なのは、つまるところ「気づく」ことの独特の難しさにあります。もうすでにすぐそこにあるのに、そのことに気づかない、気づけないということ。気づくのは自力ではありません、純粋に他力です。こちらからゲットするのではなく、むこうからゲットされるのです。ときどき、どうすれば本願に気づくことができますかという質問を受けることがありますが、「どうすれば」の問いは自力の世界でのみ意味を持ち、他力においてはまったく無力です。どれほど必至に気づこうとしても気づけないのに、ある日突然気づいているのです。そのとき、これまでずっと気づかなかったことにいま気づけた僥倖を喜びながら、それを「なほし霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし」と感じざるをえないのです。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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