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選択本願悪世にひろむ [「『正信偈』ふたたび」その110]

(3)選択本願悪世にひろむ

第3句で「真宗の教証を片州に興す」と言われたことが、第4句では「選択本願悪世にひろむ」とことばを替えて言われます。法然浄土教の特徴をあらわす語を一つ上げよと言われたら、迷うことなく「選択」を上げたいと思います(浄土宗では「せんちゃく」と読み、浄土真宗では「せんじゃく」と読みます)。第十八願を「選択本願」と命名したのは法然ですし、その著『選択本願念仏集』のなかには「選択」ということばが頻出します。そして法然自身がこのことばについて「『選択』とはすなはちこれ取捨の義なり」と解説しています(第3、本願章)。「あれも、これも」ではなく、「あれか、これか」を明確にするという姿勢です。

それがいちばん分かりやすい形で示されているのが『選択本願念仏集』の結論とも言うべき「三選の文」(略選択とよばれます)です。

「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣(さしお)きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」。まず聖道門を捨て、浄土門を選ぶ(一選)、次に往生の行として雑行(正行以外のすべて)を捨て、正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)を選ぶ(二選)、そして最後に助業(正行のなかの称名以外)を捨て、正定業(称名一つ)を選ぶ(三選)というのです。かくして最終的に称名一つを選ぶことで「かならず生ずることを得」と言われます。

さてこの選択において、いちばん大事なことは、選択するのは誰かということです。三選の文を読みますと、われらが選択の主体として、決然として「あれを捨て、これを選べ」と述べていますが、しかしわれらが選択の最終的な主体であるとしますと、選択の根拠はわれらにしかなく、どんづまりのところで「ほんとうに称名一つで往生することができるのか」という疑問につきまとわれることになります。法然が比叡山西塔黒谷で最後の決断を下せずに躊躇っていたのは、この疑問の壁を突破できなかったからに違いありません。


タグ:親鸞を読む
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