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はじめに(12) [「親鸞とともに」その117]

第12回 いまということ

(1)はじめに

これから安心(仏教では「あんじん」と読みます)は「いま」にしかないということを考えたいと思います。「老後の不安」ということばを手がかりにしましょう。

日本人の貯蓄率の高さが話題となっています。政府はこの銀行に眠っている莫大な資金を投資に引っ張り出して経済を活性化したいと考えているようですが、この高貯蓄率のもとが「老後の不安」にある以上、それが解消されない限り、大きく変化することはないでしょう。このようにわれらの多くが「老後の不安」をかかえていますが、さてこの不安はどこにあるでしょう。「老後の不安」と言うからには、それは老後にあるように思われますが、しかし老後ってどこにあるのでしょう。

もっと単純に明日のことを考えてみましょう、明日とはどこにあるのかと。「そりゃ、今日が終わった後に決まっているじゃないか」と言われるでしょう。でも、考えてみてください、今日が終わった後にやってくるのはまた今日であり、明日ではありません。その日が終わっても、またまた今日がやってくるだけで、どこまでいっても明日はやってきません。としますと明日はどこにもないのでしょうか。とんでもない、われらは明日があると思って生きており、明日のない世界などは考えることができません。

としますと明日はどこにあるのか。今日にあると考えるしかありません。今日という日に明日のことをいろいろと思う、その思いのなかにしか明日はありません。同じように、老後という時間がどこかにあるわけではありません。たとえば誰かが75歳になったのちを老後と考えているとしますと、その人が75歳になったとき、老後はまたその先に送られ、かくしてどこまで行っても老後がやってくることはありません。ということは「老後の不安」とは、老後そのものにあるのではなく、老後のことを不安に思っている「いま」にあるとしか考えることができません。

老後のことを考えて「いま」不安に駆られていること、これが「老後の不安」であり、それは「いま」の不安です。


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