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涅槃のかどに入る [「親鸞とともに」その91]

(5)涅槃のかどに入る

涅槃に入るとは言わず、「涅槃のかど(門)」に入ると言いましたが、これには少し説明が必要です。

われらの苦は煩悩からもたらされていること(これが集諦です)に気づくのが、善導の言う「機の深信」に他なりません。「機の深信」とは「自分は煩悩にまみれた凡夫であり、これまでどれだけの悪を重ねてきたことか」と気づくことです。この気づきは一見ひとを絶望に陥れ、自暴自棄にさせるように思われるかもしれませんが、善導はこの気づきの裏側には「法の深信」が貼りついていると言います。「法の深信」とは「自分のような悪凡夫のために弥陀の本願が用意されている」という気づきです。「機の深信」と「法の深信」はコインの表と裏のような関係にあり、一方があればかならず他方がそれに伴っています。悲しみと喜びが一枚になっているのです。

このように、自分のうちなる悪に気づくことは、同時に自分のうちなる本願に気づくことであり、これがわれらの信心です。こうしてわれらに信心が(「機の深信」と「法の深信」が一体となって)開けるとき、涅槃に入るのではありません。煩悩はそのままですから、涅槃に入ることはできませんが、でも涅槃のかどに入ることができるのです。涅槃のかどとは親鸞がときどきつかう言い回しで、たとえば、曇鸞のことを和讃で「具縛の凡衆をみちびきて、涅槃のかどにぞいらしめし」と詠っています。涅槃のかどに入れば、かならず涅槃に至ることになりますから、もう涅槃を得たにひとしいと言えます。これが縁起という観点から見たときの滅諦です。

四諦説の「煩悩と苦」を例として「原因と結果」の関係と「縁起」の関係の違いを見てきましたが、次に、前者は「異時因果」であるのに対して後者は「同時因果」であることをあらためて確認しておきたいと思います。すなわち、原因・結果においては原因が時間的に先で、結果は後というように時間を異にしますが、「これあるに縁りてかれあり」の縁起においては「これ」と「かれ」は同時であるということです。われらは因果と言えば、異時因果しか考えませんが、それとは別に同時因果があるということ、そして仏教の因果(縁起)は同時因果であるということを見ておきたいのです。


タグ:親鸞を読む
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