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悪人正機 [『ふりむけば他力』(その49)]

(11)悪人正機

 親鸞と言えばすぐ「悪人正機」が頭に浮ぶほど、このことばは親鸞浄土教とつよく結びついています。実はその源は法然にあるのですが、『歎異抄』に出てくることで親鸞独自のことばとされるようになりました。「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるに世のひとつねにいはく、『悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや』。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり」とあります。世間では「悪人ですら往生できるのだから善人はなおさらである」と言われるが、本願他力の教えではその逆に「善人ですら往生できるのだから悪人はなおさらだ」と言わなければならないというのです。
 「そのゆゑは」として、こうつづきます、「自力作善のひと(これが善人です)は、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と。そしてさらに「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり」とあります。世の善人は自力作善の人で他力をたのむこころがないが、悪人は他力をたのむこころがあるから本願に相応して往生できるのだということですが、さてこれがなかなか肚にストンと落ちてくれません。ぼくは長年高校生たちに社会科を教えてきましたが、親鸞の「悪人正機」を説明するときには額から脂汗が滲んできたものです。ことばを重ねれば重ねるほど、生徒たちの顔にクエスチョンマークが増えていくのです。
 それはしかし無理もありません。本願他力というものが多少でも感じられるためには、己の悪に気づいていなければなりませんが、まだ人生を歩みはじめて間もない高校生たちに自分のなかに渦巻く煩悩がピンとくるはずがありません。社会生活を積み重ねる中で自分がいかに「愛欲の広海に沈没し」、「名利の大山に迷惑」しているかに目覚め、そうしてはじめて本願他力に遇うことができるのです。本願他力を「ありがたい」と思えるのは、己のなかに巣くう悪を「すみません」と慚愧するからです。己の悪を「すみません」と慚愧する悪人こそ本願他力を「ありがたく」信受することができる、これが「悪人正機」ということです。

                (第4章 完)

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