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如来とひとし [『末燈鈔』を読む(その45)]

(6)如来とひとし

 信心のひとは弥勒と「おなじ」で、仏と「ひとしい」という不思議について、さらに展開されていきます。このあいだ「たてさま」と「よこさま」についてお話しました(4)。目の前の階段を一段一段上がっていくのと、あるときもうすでに最上段にいることにふと気づくのと。
 『歎異抄』の後序におもしろいエピソードが伝えられています。
 まだ承元の法難が来る前の吉水時代のことですが、親鸞がある時「法然上人の信心も自分の信心もひとつです」と言ったのを聞きとがめた先輩たちが、「どうして法然上人とそなたの信心がひとつであるものか」と反発し、論争になりました。最後に法然上人の裁断を仰いだところ、「わたしの信心も、善信房(当時の親鸞の名です)の信心も如来より賜ったものだからひとつです」と言われたというのです。
 もし信心が「たてさま」に一歩一歩得ていくものでしたら、法然の信心と親鸞の信心がひとつであるはずがありません。でも信心は「よこさま」に与えられるものですから、ひとつでなければなりません。法然が言いますように、もし別の信心をもっているなら「源空(法然です)がまいらんずる浄土へは、よもまひらせたまひさふらはじ」ということになります。
 善信房の信心が法然の信心と「ひとつ」であるように、信心のひとは弥勒と「おなじ」で、如来と「ひとしい」。
さてしかし、信心が定まったとき直ちに往生も定まりますから現生正定聚であるというものの、この身は「あさましき不浄造悪の身」です。仏とは程遠い煩悩具足の凡夫です。この「あさましき不浄造悪の身」で、どうして「如来とひとし」などと言えるのか、まだまだ腹にストンと落ちてはくれません。


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