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自然に往生をえしむ [はじめての『尊号真像銘文』(その81)]

(12)自然に往生をえしむ

 親鸞は「必得往生(かならず往生を得)」について、こうかみ砕いてくれます、「かならずといふは自然に往生をえしむと也。自然といふは、はじめてはからはざるこころなり」と。「はじめてはからはず」という言い回しはときどきお目にかかりますが、この場合の「はじめて」は「ことさらに、あらためて」くらいの意味でしょう。ですから「自然に往生をえしむ」といいますのは、ことさらにこちらから往生しようと思わなくても、おのづから往生させていただけるということです。
 もう一度、本願、プールヴァ・プラニダーナ(前の願い)に戻りますと、ぼくらが「生きんかな」と願うより「前」に、すでに「生かしめんかな」と願われているということでした。第18願のことばでは「若不生者、不取正覚(もし生まれずば正覚をとらじ)」であり、これをぼく流に平たく言いかえれば、「帰っておいで」と呼びかけられているということです。その呼びかけが聞こえることが本願に遇うことに他なりません。そして本願に遇うことがとりもなおさず往生することです。
 ときに欝々とこころ楽しまないとき、「なんで生きているのかな」という思いが胸をかすめます。この思いを裏返しますと、そこには「こころおきなく生きたいな」という願いが息づいています。で、「どうしてこころおきなく生きることができないんだろう」と思い巡らすのですが、そんなとき思いがけずこの「若不生者、不取正覚」の声が、「南無阿弥陀仏」の声が聞こえることがあるのです。そして、こちらから「こころおきなく生きたい」と願うのは、それに先立ちむこうから「こころおきなく生かしてやりたい」という大きな願いがかけられているからであることに気づきます、「そうか、生きとし生けるものみながこころおきなく生きてほしいと願われているのだ」と。
 往生とは、こことは違うどこかで生きることではありません、ここでこころおきなく生きることです。そして「こころおきなく生きてほしい」という本願に遇うことが、とりも直さずこころおきなく生きることができるということです。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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