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諸障自然にのぞこりぬ [はじめての『高僧和讃』(その111)]

(13)諸障自然にのぞこりぬ

 一生造り続けた罪が念仏することで取り除かれると言われるその大本はと言いますと、またもや『観経』にあります。
 九品往生のなかの下品の段(下品とは悪人のことです)にそれが説かれているのですが、たとえば下品下生(極悪人です)について「仏の名を称うるがゆえに、念々の中において、八十億劫の生死の罪を除き、云々」とあります。五逆・十悪のものが、その臨終において、ただ仏の名を称えれば往生できると善知識に勧められ、たった十回名号を称えれば、その一念一念で八十億劫もの長いあいだ積み重ねてきた悪業の罪が消えてしまい、浄土往生ができるのだというのです。起悪造罪は往生の障害になると思われますが、それにもかかわらす弥陀の本願力により往生できるとしますと、これまでの起悪造罪が念仏することにより消えるからだとなるわけです。
 さてしかし、ここから念仏には滅罪の効能があると受けとるのは念仏を根本から歪めるものと言わなければなりません。この誤った考え方については『歎異抄』第14章に簡にして要をえた批判があります、「(念仏により)つみを滅せんとおもはんは自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらふなり」と。これにつけ加えることはひとつもありませんが、さてでは親鸞がここで「諸障自然にのぞこりぬ」と言っているのはどういうことか。『信巻』に説かれる現生十益のひとつに「転悪成善」がありますが、これを手がかりに考えてみましょう。
 「悪を滅する」のではなく「悪が転じる」。
 金子大栄氏がどこかで言われていたことですが、「人に親切をすると幸せになる」ということばは二通りに受けとれます。ひとつは「幸せになるためには人に親切にしなければならない」と受けとることですが、この親切には打算がはたらいています。もうひとつは「人に親切にすること自体が幸せをもたらす」と受けとることで、たとえば電車の中で座席を譲ることそのものが幸せということ。同様に「念仏することで悪が消える」を「悪を消すためには念仏しなければならない」と受けとるのではなく、「念仏することがそのまま悪が消えること」と受けとめる、これが転悪成善です。念仏するなかで悪が消えるというのは、悪がもう悪のはたらきをしなくなるということです。

タグ:親鸞を読む
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