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罪業深重のあさましき女人 [「『おふみ』を読む」その42]

(2)罪業深重のあさましき女人

女人往生の話が出てきました。女人には、十悪・五逆の罪人であることに加えて、さらに五障・三従という罪障があるとされますが、五障のひとつが「仏になれない」ということです。何とも理不尽と言わざるをえませんが、蓮如はそんなあさましき女人のために阿弥陀仏の本願があるのだ、と説きます。ふたごころなく弥陀の本願をたのめば、まちがいなく往生できるのだ、と。ここに短いことばで女人往生の教えが纏め上げられていることは疑いありませんが、その反面、なんとなく「よそよそしさ」を感じてしまいます。

前に(第2回)蓮如の「客観的な語り」について述べました。たとえば、こんなふうです。われらは十悪・五逆の罪人である。弥陀の本願はかような罪人のためにある。ゆえに十悪・五逆のわれらは往生できる。こうした三段論法で語られているように思える、と。いまの場合、それがこうなります。どういうわけか諸経には女人は救われないと書いてある、しかしありがたいことに弥陀の本願はそんな女人を救おうといってくださる、だからわれら女人も往生できるに違いない。ここから「二心なく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころ」が大事であるという結論が導かれます。もう望みの綱は弥陀の本願しかないのだから、これを一心一向にたのみ、たすけたまえとおもうしかないと。

ここに「たのむ」と「たすけたまえ」という蓮如教学のキーワードが出てきました。

このことばについては他力との関係でしばしば議論されてきました。普通の語感では、「たのむ」も「たすけたまえ」も、われらが弥陀を「たのみ」、われらが弥陀に「たすけたまえ」と願うことです。しかしそれでは親鸞の他力思想とどうにも平仄があいませんから、これをどう理解すればいいだろうかと、多くの人たちが頭を悩ましてきたのです。その落ち着き先はざっと次のようなところでしょう。「たのむ」とは、われらがこちらから「依頼する」ではなく、向こうに「ゆだねる」ということ、また「たすけたまえ」は、われらがこちらから「たすけを請う」ではなく、向こうからの「たすけを信じる」ということだと。

親鸞もときに「たのむ」と言うことがあります。たとえば『唯信鈔文意』に「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」とあります。これは、「自力をはなれたる」とあることからも、明らかに、こちらから「依頼する」ではなく、本願他力にすべてを「ゆだねる」の意味です。親鸞が「たすけたまえ」と言うことはありませんが、もしそのように言うとしましても、これも本願他力の「たすけを信じる」と受け取ることができるでしょう。ただ、そのように受け取るには前提があります。それが機の深信です。


タグ:親鸞を読む
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