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流通分(るずうぶん) [『観無量寿経』精読(その94)]

(4)流通分(るずうぶん)

 いよいよ最後となります。いわゆる流通分です。

 その時阿難、すなはち座より起(た)ち、前(すす)みて仏にまうしてまうさく、「世尊、まさにいかんがこの経を名づくべき。この法の要をば、まさにいかんが受持すべき」と。仏、阿難に告げたまはく、「この経をば、極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ずと名づく。また業障(ごっしょう)を浄除し諸仏の前(みまえ)に生ずと名づく。なんぢまさに受持すべし。忘失(もうしつ)せしむることなかれ。この三昧を行ずるものは、現身に無量寿仏および二大士(にだいじ、観音・勢至)を見ることを得。もし善男子・善女人、ただ仏名・二菩薩名を聞くだに、無量劫の生死の罪を除く。いかにいはんや憶念せんをや。もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華(ふんだりけ)なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友(しょうう)となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢよくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(みな)を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふ時、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きたてまつりて、みな大きに歓喜す。
 その時に、世尊、足(みあし)虚空を歩みて耆闍崛山(ぎしゃくっせん、霊鷲山)に還りたまふ。その時に、阿難、広く大衆のために、上(かみ)のごときの事を説くに、無量の諸天および竜・夜叉、仏の所説を聞きたてまつりて、みな大きに歓喜し、仏を礼(らい)して退きぬ。

 阿難がこの経を何と名づけたらいいでしょうかと問うたのに対して、釈迦は「極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず経」と名づけるべきだと答えます。これはこれまで説かれてきたことからして順当な答えだと言えますが(実際この経は『観無量寿経』と名づけられます)、釈迦はそれにつづけて「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と付け加えます。このひと言に注目したのが善導でした。彼は「無量寿仏の名を持て」を「無量寿仏の名を称えよ」の意と解し、ここにこの経の本質があると見たのです。すなわち「観仏」が教えのメインのように見えるが、実は釈迦の真意は「称名」にあるのだと。

タグ:親鸞を読む
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