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大悲ものうきことなく [『正信偈』を読む(その153)]

(7)大悲ものうきことなく

 「わたし」が見えないようにしているものを「わたし」が見ることができないのは当たり前です。それでも「大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」。
 親鸞は「十方微塵世界の 念仏衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」という和讃の「摂取」の横に、「おさめとる、ひとたびとりてながくすてぬなり」と書き添え、さらに「摂」に「ものの逃ぐるを追(お)はへとるなり」と添えています。逃げるものを追いかけてでも摂取するのが阿弥陀仏だと言うのです。
 「わたし」は、見たくないものに光が当たらないように、そうと意識することなく逃げ回っているのですが、それを追いかけてでも「つねにわが身を照らしたもう」のが阿弥陀仏だと教えてくれます。ここで改めて見ておきたいのは、光明というものはわれらを摂取してくれるものなのに、どうしてそれから逃げようとするのかということです。
 われらを守ってくれ、救ってくれるものからどうして逃げようとするのか。それは、光明はわが身を守ると同時に、見たくないものも明るみに出してしまうからです。だから本能的に「いやだ、いやだ」と逃げ回る。しかし、どれほど逃げようとも、あるときふと光に照らされている自分に気づかされるのです。
 こうして自分の中の見たくないものが白日の下にさらされます。これが「機の深信」、「自身はこれ罪悪生死の凡夫」の気づきです。ところが、それが同時に「法の深信」であるという不思議。罪悪生死の凡夫のままで「かの願力に乗じてさだめて往生をう」と思えるのです。
 ここでも「機の深信」と「法の深信」とは、二つであって同時に一つであることを確認することができます。

             (第21章 完)

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