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本願に気づくことが救われること [「信巻を読む(2)」その65]

(7)本願に気づくことが救われること

「これこれをするもののみ」ということばに排他性が感じられると言いましたが、それは「これこれをする」という言い回しから、「これこれ」を「する」か「しない」かはそれぞれの意志によると思われるからです。それぞれの意志によるのだとしますと、「しようとする」人は救われるが、「しようとしない」人は救われないというように分断され、そこに排他性が生まれざるを得ません。さて問題は、本願を信じ念仏を申すことはそれぞれの意志によるかどうかということです。「信巻」でこれまで説かれてきたのは、一にかかって、信心も念仏もわれらのはからい(意志)ではなく、如来の回向であるということです。

信心の門も念仏の門も、われらがみずからの意志で入るものではありません、気がついたらもうすでに入っていたのです。

このように見ますと、「本願を信じ念仏を申すもののみが救われる」ということばの印象が大きく変化します。このことばは、気がついたらもうすでに信心し、もうすでに念仏しているもののみがもうすでに救われているという意味になります。逆に言いますと、まだ信心をしていないし、まだ念仏していない人は、残念ながらまだ救われていないということです。だからと言って、そうならば本願を信じ念仏を申して救いに与ろうと思っても、そんなふうにできるものではないことはすでに言った通りで、信心も念仏もわれらの意志でするものではありません。

本願を信じ念仏を申すとはどういうことかといいますと、「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」(本願)が、「ひかり」(光明)と「こえ」(名号)として送り届けられていることに気づいたということです。そしてこの「ひかり」と「こえ」に気づいたということ自体が救われたことに他なりません。しかしまだそれに気づいていない人は、残念ながらまだ救いに与ってはいません。でも「ひかり」と「こえ」は分け隔てなくすべての衆生のもとに送り届けられています。救いはもうすでにやってきているのです、ただそれに気づくかどうかということで、気づかなければ救いはありません。


タグ:親鸞を読む
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