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この世のならひ [親鸞の手紙を読む(その100)]

(7)この世のならひ

 親鸞は「この世のならひにて、念仏をさまたげん人は、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそ候はめ、とかく申すべきにあらず」と言います。地域の権力者たちが念仏を妨げようとするのは「この世のならひ」であって、「とかく申すべきにあらず」と。驚きあわてることはないと言うのです。釈迦のことばにも善導大士のことば(『法事讃』)にも、そのようなことがあることは前もって教えてくださっていると。
 さてしかし、そんな災難がふりかかってきたときにどうすればいいのか。
 前に『末燈鈔』第20通で、親鸞は「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんど」する造悪無碍の人について「謗法のひとなり、五逆のひとなり」とし、そのような人から「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」と諭していました。この「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」が親鸞の基本スタンスで、この場合も「とほざかる」ことができればそうするのがいいのでしょうが、権力者の手から逃れることはできません(まして立ち向かうのは無謀と言うべきです)。
 できるのは堪え忍ぶことだけです。そう言えば『ダンマパダ』(法句経の名で知られています)に「罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、―かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ」(ここでバラモンと言われるのは理想の仏道修行者のことです)という文があります。もし自分が理由なく罵られ、殴られたりしたら、それにじっと堪え忍ぶことなどできそうにないなあと思いながら、そんなふうになさしめる力はいったい何だろうと考えざるをえません。
 しかも親鸞は、そんなふうに害を加えてくる人(かのさまたげをなさんひと)を「あはれみをなし、不便におもふて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべし」と言います。イエスのことばが思い出されます、「『目には目を、歯には歯を』と云へることをあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、悪しき者にてむかうな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。…『汝の隣を愛し、汝の敵を憎むべし』と云へることあるを汝らきけり。されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」(「マタイ伝」第5章)と。

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