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仏号むねと修すれども [親鸞の和讃に親しむ(その65)]

(5)仏号むねと修すれども

仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ 千中無一(千人の中に一人も往生できない)ときらはるる(第67首)

念仏だけときめたれど、現世をいのるひとなれば、これも雑修とおなじこと、千に一人も生まれない

形は専修念仏でも「現世をいのる」行者は救われていないと詠われます。「現世をいのる」念仏には真実の信心がないということです。「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(信巻)とありますように、脇目もふらず念仏していても、そこに本願の信心がないことがあると言われます。「現世をいのる」とは、「わたしのいのち」の幸せをいのるということで、そのために念仏して「ほとけのいのち」に願をかけるということです。そのとき「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は切り離されています。しかし本願を信じるということは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」であることに気づくことです。「わたしのいのち」はもうすでに「ほとけのいのち」のうちで生かされていると気づいているのですから、それ以上に何をいのることがあるでしょうか。

念仏して「現世をいのる」人にとって、「ほとけのいのち」はどこかに実体として存在するものと思念されています。だからこそ「わたしのいのち」のために「ほとけのいのち」に願をかけるのです。しかしどこかに実体として存在する「ほとけのいのち」は、もはや「無量(アミタ)のいのち」ではありません。なぜなら、その「ほとけのいのち」の外に「わたしのいのち」があるのですから、それは「無量のいのち」ではなく、「有量のいのち」と言わなければなりません。そもそも「わたしのいのち」も実体として存在するのではありません。デカルトの「わたしは思う、ゆえにわたしはある」は、何かを思う以上、「思うわたし」を考えざるをえないということであり、仏教的に言えば、「思うわたし」を仮説しているだけです。ところがわれらは「わたしのいのち」が実体として存在すると思い込み、それに囚われています。そして「ほとけのいのち」もまた実体として存在すると思い込み、それに願をかけるのです。

しかし「わたしのいのち」も「ほとけのいのち」も実体として存在するものではないと気づいたとき、その二つは二つにして一つになっています。


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