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善悪の宿業をこころえざるなり [『ふりむけば他力』(その52)]

(3)善悪の宿業をこころえざるなり

 唯円は、「わざとこのみて悪をつくる」ような本願ぼこりのものは「往生かなふべからず」と断罪する人に対して、「本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり」と言いますが、ここから彼は本願を疑うことと宿業を心得ないことをひとつと見ていることが分かります。逆に言いますと、本願を信じることと宿業を信じることは同じだということです。そのように結論を述べた上で、さていよいよ宿業論がはじまります、「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」と。そしてつづけて先に上げた親鸞の仰せ、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」を紹介します。よきこころの起るのも、わろきこころの起るのも、みな宿業のなせるわざであるということです。
 「宿業」の意味を確認しておきましょう。「宿」は「過去」ということで、この世に生まれる以前を指すのが普通です。仏教はインドに古くから伝わる輪廻転生の思想を受け入れていますから、前世・現世・後世の三世を認めます(ただ釈迦は死んだ後にも魂はあるのかとしつこく尋ねる青年・マールンクヤに沈黙で応え、そのような形而上学的な議論を退けています)。「業」はサンスクリットの「カルマン」の訳で「行為」を意味します。ですから「宿業」で「過去になした行為」という意味になり、われらに「よきこころのおこるも」、また「悪事のおもはれせらるるも」、みな過去になした行為によってそのように「もよほされ」、「はからはれて」いるということになります。
 さて唯円は、すべては宿業によることをより具体的に示そうとして、親鸞との間で交わされた問答を紹介します。対話形式で再現してみましょう。
 親鸞:唯円房はわがいふことをば信ずるか。
 唯円:さん候ふ(はい、信じます)。
 親鸞:さらば、いはんことたがふまじきか。
 唯円:つつしんで領状申して候ふ(つつしんでお受けいたします)。
 親鸞:たとへばひと千人ころしてんや(殺してみよ)、しからば往生は一定すべし。
 唯円:仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべし(殺すことができる)ともおぼえず候ふ。
 親鸞:さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ。

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