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有限と無限 [「親鸞とともに」その14]

(14)有限と無限

清沢満之という人は「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係を「有限なるもの」と「無限なるもの」との有機的関係として、示唆に富む考察をしていますので参照しておきましょう。

「無数の有限なるもの(わたしのいのち)は、互いにつながりあって無限なるもの(ほとけのいのち)をつくりあげている。そのつながりのありようは有機的である。というのは、有限なるもの一つひとつが互いに依存しあい、一つとして独立したものはなく、それぞれが他の一切と切り離しがたい関係をもつだけでなく、そのつながりによってこそ己の本性を全うしているのであり、それはあたかも有機体の各機関が互いに依存しあって全体を構成するだけではなく、その依存関係によってこそ各機関の特殊なはたらきが可能になるようなものだからである」(『宗教哲学骸骨』、私訳)。

そしてこの関係を具体的に人間の身体に譬えて次のように表現します、「たとえばわたしの手は全身と切り離すことのできないつながりを持つがゆえに、もし手を切断すれば、全身に甚大な影響を与えるだけでなく、手もまた手としてのはたらきができなくなるようなものである。無数の有限なるものが各々その本性を失わないのは、他の無数の有限なるものと有機的につながっているからで、有機体のそれぞれの機関があいよって一つの身体を構成しているように、無数の有限なるものがあいよって、一つの無限なるものをつくり上げているのである」(同)。

「わたしのいのち」(身体のそれぞれの機関)とは無数のつながり(線)が交差するひとつの点であり、無数のつながりの総体が「ほとけのいのち」(身体そのもの)です。ここで大事なことは、それぞれの点相互のつながりが有機的であるということ、すなわちそれぞれの点一つひとつがそれ自体として独立したものではなく、他の一切の点と切り離しがたくつながりあっており、そのつながりによってはじめてその点としてのはたらきが可能となるということです。もし他の一切の点から切り離されてしまえば、たちまち存立の基盤を失ってしまいます。


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中動態 [「親鸞とともに」その13]

(13)中動態

われらは「能動―受動」の文法に基づいて世界を見ていますから、世界そのものが「する」か「される」かのどちらかで出来上がっていると思っているのですが、あにはからんや、「する」でもあり「される」でもある中動態の世界があるということです。国分氏が上げている例ですが、昼ごはんにカレーを食べたいと思ったとしましょう。それは紛れもなく「わたし」に起こったのですから能動です。しかしそれはどこかからカレーのいい匂いがしてきて、それにつられて「カレーを食べたいな」と思ったのかもしれません。そうしますとそれは受動です。このようにわれらの行動が能動でもあり、かつ受動でもあるというのはざらにあると言わなければなりません。

この中動という事態を言いあらわすものとして「うながされる」とか「はからわれる」ということばがあります。自分で何かをしようと思っているのは確かですが、実はそうするように「うながされ」、「はからわれて」いるということです。

「生かされる」という言い回しに戻りますと、これは「能動―受動」の二項対立に囚われることによって単純に受動と受けとめられることが多いものの、それが表そうとしているのは、間違いなく自分で生きようと思っているにもかかわらず、実はそのように「うながされ」、「はからわれて」いるということです。「わたし」は誰に指図されるでもなく自分で生きたいと思っています。しかし、その生きたいという思いそのものが、「わたし」をかたちづくっている無数のつながりにより、そのように「うながされ」、「はからわれて」いるのです。これが「生かされている」ということで、そこから「ありがたい(あることかたし)」という思いが湧き出てきます。

「わたし」は「わたし」を取り巻いている無数の「つながり」によって「生かされている」のですが、この無数のつながりを「ほとけのいのち」とよぶことにしますと、それぞれの「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に「生かされている」ということになります。この両者の関係をさらに踏み込んで考えていきたいと思います。


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「生かされている」 [「親鸞とともに」その12]

(12)「生かされている」

「ありがたい」に関連して見ておかなければならないこととして、「わたし」は無数のつながりによって「生かされている」ということがあります。「わたし」が無数のつながりをつくっているのではなく、逆に、無数のつながりが「わたし」をつくっているということで、そのことを「生かされている」と表現しているのです。この「生かされている」という言い回しは宗教の言辞においてよくあらわれ、とりわけ浄土真宗ではしばしばお目にかかるものですから、それに馴染んでいる人たちには何の違和感もなく受けとられるのですが、宗教とは無縁に生きている若い人たちには抵抗があるようです。ある大学の教員が学生にこの言い方についてどう思うか尋ねてみると、多くの学生が終末期の患者が何本ものパイプにつながれている様子をイメージすると答えたそうで、なるほどそういうものかと思わされました。

このような受けとめがされるのは、「生かされる」ということば遣いにその元があります。これは「生かす」に「れる」がついたもので、「れる」には受身・尊敬・自動・可能というさまざまな意味がありますが、先のイメージはこれを受身に受けとり、そこから「わたし」の意思に関係なく、一方的にはたらきかけを受けていると理解したと思われます。しかし無数のつながりが「わたし」をつくっていて、そのつながりが「わたし」に他ならないというのは、そのようなことを意味しているのではありません。「わたし」自身が生きようと思って生きているのであり、決して無理やり生かされているのではありません。しかし「わたし」が生きようと思うこと自体が、無数のつながりのなかでそのようにはからわれているということです。生きようという思いは紛れもなく「わたし」に起こっています、しかしその思いを「わたし」が起こしているのではないということです。

何年か前に国分功一郎氏が「中動態」に関する著書(『中動態の世界』)を発表され、それを読んだぼくは目から鱗が落ちる思いがしました。われらはいま「能動―受動」という文法の世界に生きていますが、遠い昔には「能動―中動」という文法の時代があったことを教えられたのです。「する」か、さもなければ「される」という二項対立ではない世界があったというのです。


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「ありがたい」 [「親鸞とともに」その11]

(11)「ありがたい」

まずは「ありがたい」ということばについて。われわれ日本人は感謝の意をあらわすのに「ありがとう」ということばを日常的につかっていますが、これは他国語とくらべて異彩を放っています。他国語では普通に「わたしはあなたに感謝します」という意味のことばをつかいますが(“Thank you”、“Danke”、“謝謝”などなど)、日本語では「ありがとう」と言います。これは「あることかたし」が「ありがたい」となり、さらに「ありがとう」となったもので、ここには「わたし」も「あなた」もありません。いまここで起こっていること(たとえばどなたかから思いもかけない親切を受けたこと)が「あることかたし」と言っているのであり、それが感謝のことばとなっているのです。

さていま何が「ありがたい(あることかたし)」かといいますと、「わたし」が「いまここで生きている」ことです。どういうことでしょう。

もういちど縁起の法に戻ります(5,6)。「わたし」はそれ自体として存在するのではなく、存在するのは「わたし」を取り巻く無数の「つながり(縁)」であるということでした。まずもって「わたし」という主体がいて、その主体が無数の「つながり」をつくりだしているのではなく、まずもって無数の「つながり」があり、「わたし」はそうした「つながり」が交差する点にすぎないということです。さて、無数の「つながり」の交差する点が「わたし」ですから、この「わたし」がこの「わたし」であるのは「たまたま」のことであると言わなければなりません。この「わたし」がこの「わたし」ではなく、あの「わたし」であるとしても何の支障もありません。この「わたし」と、あの「わたし」がそっくり入れ替わっていても何の問題もないのですから。

このように、いま「わたし」においてこの「つながり」が成り立っているのは奇跡的なことです。これが「わたし」が「いまここで生きていること」は「ありがたい」ということです。


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この世に生まれてきた意味 [「親鸞とともに」その10]

(10)この世に生まれてきた意味

「わたし」が生きることの主宰者であるという立場で「生きる意味は何か」という問いについて考えてきました。そして得られた結論は、この問いには無理があるということでした。これはないものねだりの不条理な問いであるということです。そこで今度は仏教の立場、すなわち「生きる」ことは「わたし」〈に〉に起こっているが、「わたし」〈が〉起こしているのではないという立場で「生きる意味」について考えてみましょう。その場合、問いは「何のために生きる」とか「なぜ生きる」という形ではなく、「この世に生まれてきた意味は何か」、あるいは「生きる」ということばをつかうとしても、「いま生きていることにどのような意味があるか」という形になります。

「わたし」が生きることの主宰者であるとしますと、「生きる意味」の問いはおのずから「これから」のことを問うことになります、「何のためにこれから生きるか」、「なぜこれから生きるか」と。それに対して「わたし」が生きることを起こしているのではないとしますと、「生きる意味」の問いは「もうすでに」のことを問うています、「この世に生まれてきたことにはどのような意味があるのか」、「いますでに生きていることにはどのような意味があるのか」と。

そして大事なことは、主宰者としての「わたし」が「生きる意味」を問うのは、「何のために生きるのか」、「なぜ生きるのか」が見いだせなくなり途方に暮れているときであるのに対して、生きることの主宰者ではない「わたし」が「生きる意味」を問うのは、「この世に生まれてきた」こと、「いま生きている」ことを「ありがたい」と思っているからだということです。前者は「生きる意味」がないことを嘆いて出てくる問いであるのに対して、後者は「生きる意味」があることを「ありがたい」と思っていることから出てくるということです。

ちょっと先走ってしまったようです。「いま生きている」ことが「ありがたい」というのはどういうことか、これを述べなければなりません。


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「なぜ生きる」 [「親鸞とともに」その9]

(9)「なぜ生きる」

次に「生きることにどんな理由があるのか」という問いについて考えてみましょう。先の問いは「何のために生きるか」を問うのに対して、この問いは「なぜ生きるか」と問います。この問いもまたいつでも誰にでもおこるものではなく、こんなことを疑問に思いもせずに一生を終える人はたくさんいるでしょう。この問いは、生きていることに砂を噛むような思いをしているときに、こんな人生に何の価値があるのだろう、なぜ生きつづけなければならないのか、という形であらわれます。とりわけ死を意識したとき、「いずれ死ぬのに、なぜ生きる」という形をとって意識に上ってきます。「どうせ死ぬことになるのに、この先生きていくことにどんな意味があるのか」という、これまた深刻な問いです。

このように、「なぜ生きる」という問いが出てくるのは、先の「何のために生きる」という問いの場合と同じく、「生きる」ことにクエスチョンマークがついたときです。「生きる」ことが順調に進んでいるときには、こんな問いが出されることはありません。「生きる」ことは、いわば空気のようなもので、普段は意識にのぼることがありませんが、それが希薄になってきたときに、「あれ、何だか苦しいぞ」と意識され、「なぜ生きる」という問題となって浮上してくるのです。

さて、「何のために生きる」という問いも、この「なぜ生きる」という問いも、「生きる」ことを采配しているのは「わたし」であるという前提があります。「生きる目的」を設定するのは「わたし」であり、「生きる理由」を見定めるのも「わたし」であると考えられています。「わたし」が「生きる目的」や「生きる理由」を与えるということです。ところがこれらの問いは、その「生きる目的」や「生きる理由」が希薄になったときに浮上してくるのですから、そもそも問い自体に無理があると言わなければなりません。目的や理由が見いだしがたくなっているのに、それは何かと問うても、うまく答えられるはずがありません。目的や理由があるときには問題とされることがなく、それらがなくなってから「何のために」とか「なぜ」とか問うのですから、これは何とも不条理な問いと言わなければなりません。


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「何のために生きる」 [「親鸞とともに」その8]

(8)「何のために生きる」

「わたし」は仮説されたものにすぎないのか、それとも「わたし」は主宰者として生きることを取り仕切っているのかによって、「生きる意味」の受けとめ方が大きく異なってきます。仏教は「わたし」は仮説されたものであるとし、デカルトは「わたし」は主体として世界と対峙しているという立場を取ります。そこで、順序をかえて、まずデカルトの立場からして「生きる意味」を問うとはどういうことかを考えてみましょう。「生きる意味」が問われるとき、この立場で考えるのが普通だからです、「わたし」という主体がこの世界の中で「生きる意味」は何だろうと。

そのとき「生きる意味」ということばには大きく二つの意味があります。一つは「生きる目的」で、もう一つは「生きる理由」です。「生きる意味は何か」という問いは「何のために生きるか」と言い替えられますし、また「生きることにどんな理由があるか」と言い替えることもできます。一つ目の「生きる目的」、「何のために生きるか」から考えましょう。われらはいつも「何かのために」生きています。さまざまな目標を立て、それに向かって行動を起こす、これが日々の生活を生きるということです。そして日々の「何かのために」が突き詰められ、最終的な目的は何かとなったときに、「何のために生きるか」という問いが浮上してきます。

しかしこの「何のために生きるか」という問いは、いつでも誰にでもおこるものではありません。日々の「何かのために」がうまくまわっているときには、この問いがおこることはまずありません。はじめに上げた趣旨文に「人は、躓き壁に突き当たって生まれた意味や生きる意味を考える」とありましたように、日々の暮らしのなかで何か大きな障害が立ちはだかったようなときに、「何のために生きているのか」という重い問いが浮上してきます。立てた目標が何らかの障害にぶつかり実現できなくなったばかりではなく、むしろ想像もしていなかったような窮地に立たされることになったとき、この問いが立ち上がってくるのです。

そんなとき、何か新たな目標を立てて、それに向かって生きていこうと思えるか、それとももはや生きる気力がなくなってその場にくずおれるかとなりますが、いずれにせよ、「生きる意味(目的)」は「わたし」が見いだし、「わたし」が立てるものであると考えられています。


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主宰者としての「わたし」 [「親鸞とともに」その7]

(7)主宰者としての「わたし」

これまでの議論の流れをふり返っておきましょう。スタートは「生まれる意味」と「生きる意味」とは異なるのではないかという疑問でした。「生まれる」ことには自分の意思が入っていませんが、「生きる」ことは自分の意思ですから、「生まれた意味」と「生きる意味」を同じレベルで論じることはできないのではないかということです。「生まれてきた」ことが自分の意思ではないことは問題ないとしまして、さて「生きる」ことは自分の意思によるのかどうか、これには議論の余地がありそうです。そこで「生きる」とはどういうことかを考えてきました。

少なくとも生きようと思うから生きていることは確かなように思われます、生きようと思わなくなったら、早晩死ぬでしょうから。としますと、「生まれる」ことには「わたし」は介在していませんが(まず「生まれて」、そののちに「わたし」があらわれるのですから)、「生きる」ことには「わたし」が関係しているのは間違いなさそうです。生きようと思うのは「わたし」ですから。そこで次に問題となるのが「わたし」とは何かということです。

デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言うとき、何かを思うときには、そこに必ず「わたし」がいるという意味でしたら、これはもう疑いようもなく確かです。「わたし」がいることを疑った瞬間、そこには疑っている「わたし」がいますから。したがって、生きようと思うとき、そこに「わたし」が姿をあらわしていることは疑いようもありません。生きようと思うことは、いつも「わたし」を伴っているということです。これはしかし、まず「わたし」なる主体がいて、その「わたし」が生きることを采配しているということではありません。

「わたし」は、生きようと思うとき、そこに否応なく伴っている前提にすぎない、つまり「わたし」を仮説することなくしては生きようと思うことができないということと、まず「わたし」という主宰者がいて、その「わたし」が生きることを取り仕切っているということはまったく別だということです。


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空虚な点としての「わたし」 [「親鸞とともに」その6]

(6)空虚な点としての「わたし」

「わたし」ということばについて考えてみましょう。このことばは一人称単数をあらわす代名詞で、話者をさします。いま語っている人が「わたし」であり、それが誰であってもかまいません。ということは「わたし」ということばそのものはまったくの無内容で、それが誰であるかの情報は何ひとつ含まれていないということです。それはちょうど「いま」という時間をさすことばが無内容であるのとまったく同じです。つまり「いま」という時刻はどこにもなく、誰かが「いま」と言ったときが「いま」であり、誰が「いま」と言っても、そのときがその人の「いま」です。

「わたし」ということばは無内容で、それが誰であるかの情報はまったくないと言いましたが、ではその情報はどこにあるかといいますと、それは「わたし」とつながっている人たち(ものたちも)とのつながりの中にあります。「わたし」とは、「わたし」の父母、兄弟姉妹、妻、友人、その他もろもろとのつながりに他なりませんから、「わたし」そのものをどれほどほじくりまわしても何も出てきません。「わたし」それ自体は、いってみれば空虚な点にすぎないということであり、それは「いま」も、それ自体、空虚な点であるのと同じことです。

実際に存在するのは、「わたし」とつながる無数の人やものたちとのつながり(縁、それは線で示されます)であり、「わたし」とはそうした無数の線が交わる空虚な点にすぎません(光学でいう「虚焦点」のようなものです)。ところがその「わたし」をあたかもつながりの主宰者であるかのように思い込み、「わたし」が主体となってさまざまなつながりをつくりだしているように思い込むところから、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む」ことになるのです。これはわたしの子であり、これはわたしの財である等と思うことは、われらが生きる上での大前提であり、そのように仮設しなくでは生活することができませんが、そのことと、「わたし」が「わたしの子」や「わたしの財」を所有するとして、それらに執着することは別であり、釈迦が我執ということばで否定したのは後者です。


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これあるによりてかれあり [「親鸞とともに」その5]

(5)これあるによりてかれあり

われらは「わたし」を前提としてわれらの生活を組み立てていることはもう疑いようがありません。この前提を否定した瞬間に、あらゆることがひっくり返ってしまいます。しかしそれは「わたし」とよばれる何かが実際に存在しているということではありません。仮に「わたし」があるとして生活が成り立っているということと、実際に「わたし」なるものが存在することとはまったく別です。ところがわれらはこの二つを混同してしまい、実際に「わたし」なるものが存在し、しかもそれがわれらの生活を主宰していると思い込みます。釈迦が我執ということばで言おうとしたのはそのことで、われらは「わたし」に囚われているということです。

われらは否応なく「わたし」を前提として生きているということは、「わたし」がいるかのごとく仮設(けせつ、仮にあるかのように措定する)して生きているということに他なりません。しかし、なぜ「わたし」なる主宰者がいるのではなく、ただ便宜上「わたし」を仮設しているだけと言えるのでしょうか。ここで「縁起の法」が登場します。縁起とは初期経典の説き方では「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と言われ、あらゆるものは他のものとの「つながり(縁)」において成り立っているということです。具体的に考えてみましょう。このぼく、浅井勉という名の「わたし」とは何ものかを言おうとしますと、さしずめ何年に誰から生まれ、兄弟姉妹には誰がいて、という具合に語りはじめるでしょう。つまり、ぼくをつくっているつながりを語ることになります。そしてそのつながりはぼくが生きる時間とともに広がっていきますが、結局ぼくとは何ものかを語ることはぼくを取り巻くつながりを語ることです。

これは何を意味するかといいますと、「わたし」とは「わたし」を取り巻くつながりに他ならず、そのつながりを離れて「わたし」なるものがそれ自体としてどこかに存在しているのではないということです。先の釈迦のことば、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む」は、「わたし」と「子」、「わたし」と「財」などのつながりが「わたし」に他ならず、それとは別のどこかに「わたし」がいるのではないにもかかわらず、「わたし」なる主宰者が「わたしの子」や「わたしの財」を所有し支配しているとして、そのことに囚われ、苦しんでいることの愚かさを指摘しているのです。


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