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本文23 [『一念多念文意』を読む(その172)]

(6)本文23

 ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆへに、やすくこころえさせむとて、おなじことを、とりかへしとりかへしかきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもふべし。あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに、おろかなるひとびとを、こころえやすからむとてしるせるなり。

 (現代語訳) 田舎の人々が、文字の意味も知らず、教えについても愚かでよく知りませんから、理解しやすいようにと思い、同じことを繰り返し書き付けました。ものの分かった人はおかしく思うでしょうし、嘲るかもしれません。しかし、人から謗りを受けようと、ただ一筋に愚かな人たちが理解しやすいようにと思って書いた次第です。

 『一念多念文意』のあとがきです。この文章とほぼ同じものが『唯信鈔文意』の末尾にもあります。そこからも『一念多念文意』と『唯信鈔文意』は同じ趣旨で書かれた兄弟分の書物であることが分かります。聖覚の『唯信鈔』や隆寛の『一念多念分別事』を関東の人たちに正しく読んでもらおうと、丁寧に噛み砕きながら「やすくこころえさせむとて、おなじことを、とりかへしとりかへしかきつけた」ということです。ここまで読んできて思いますのは、これらの書物は『教行信証』などに比べると軽い印象を与えるかもしれませんが、浄土の教えの要になることが分かりやすい和語で説かれているという点でかけがえのない書物だということです。
 さて、先回の最後にこう言いました。どこかに実体として存在するわけではないが、しかし「いるかのように」思わざるをえないのが仏であると。本講座の最後にあたり、仏とは誰のことか、つらつら考えてみたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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