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恩愛はなはだたちがたく [はじめての『高僧和讃』(その16)]

(16)恩愛はなはだたちがたく

 この三首で、菩薩が(龍樹が)万善諸行の修行の果てに念仏により救われたことを述懐しています。曠劫よりこのかた万善諸行をつんでも生死の苦海からでることはできなかったが、善知識のすすめにより念仏三昧で解脱することができた、と。やはり印象に残るのは第10首の「恩愛はなはだたちがたく、生死はなはだつきがたし」でしょう。頭に浮ぶのは『教行信証』「信巻」のあの一節です、「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はずべしいたむべし」。
 「恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし」のあとに「念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし」と続くのですが、ここをどう理解するかが勘どころです。
 念仏三昧によって、たちがたい恩愛をたつことができ、つきがたい生死の苦海をつくすことができた、とするのがすんなり分かりやすいと思いますが、そうしてしまいますと生死の苦海と弥陀の本願海とが別々にあることになります。第7首に「弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とありましたが、これも弥陀弘誓の船に乗ることで生死の苦海とは別のどこかへ連れて行ってもらえると受けとりますと、迷妄のなかをさまようことになります。
 生死の苦海と別の世界などどこにもないのです。
 龍樹は『中論』の結論部分(第25章「ニルヴァーナ(涅槃)の考察」)でこんなことを言っています、「輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない」と。輪廻の世界とは生死の苦海ですから、ニルヴァーナの世界はそれとはまったく別であると思いがちですが、龍樹は輪廻の世界とニルヴァーナの世界は別ではないと言うのです。

タグ:親鸞を読む
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