SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その33 ブログトップ

無明の闇を破す [「『正信偈』ふたたび」その33]

(3)無明の闇を破す

「ほとけのひかり」とは「ほとけの智慧」に他なりませんから(「ひかり」とは「気づき」に他なりません)、そのなかに「をさめ」とられ「むかへ」とられるということは、「すでによく無明の闇を破す」ということです。和讃に「無礙光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ」(『高僧和讃』曇鸞讃)とある通りです。さて問題はそのあとで、「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり」ときます。無明は破られたが、貪愛瞋憎はそのまま残っているということ、これをどう考えたらいいかということです。

無明は愚痴とも言われ、貪欲と瞋恚をあわせて貪・瞋・痴の三毒と呼ばれます(ただ、愚痴すなわち無明はあらゆる煩悩の根源の位置にあると考えられますから、貪欲・瞋恚と同じ平面に並べられることには不自然という感じはしますが)。としますと、無明(愚痴)は破られたのに、貪愛(貪欲)と瞋憎(瞋恚)は破られずに残るのはどうしてだろうと思います。無明があらゆる煩悩の根源であるとしますと、なおさら、無明が破られたら貪愛や瞋憎も当然破られるものと思われますが、そうではないというのはどうしたことでしょう。

無明と貪愛・瞋憎との関係をどう捉えればいいのでしょう。

無明とは縁起の理法に暗いこと、もっと分かりやすく、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であることに目覚めていないことを指します。「わたしのいのち」はただひたすら「わたしのいのち」でしかなく、それを「わたしのちから」で生きていると思っていることです。したがって無明が破られたということは、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることの目覚めに与ったということです。われらは「わたしのいのち」を生きながら、そのままで、もうすでに「ほとけのいのち」を生きている、いやこう言うべきでしょう、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を生きていることに気づかされたのです。

これが救われたということ、難しく言えば、正定聚の位についたということ、あるいは往生を得たということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その33 ブログトップ