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余のひとびとを縁として [親鸞の手紙を読む(その106)]

(4)余のひとびとを縁として

 一方、縁起・無我の思想でいいますと、すべては縦横無尽の関係・繋がりのなかにあり、しかもそれは時々刻々うつり変わっていきますから、そのひとつの結節点にすぎない「わたし」も縦横無尽の関係・繋がりにおいて時々刻々うつり変わっていかざるをえません。これが「何ごとも縁による」ということです。縦横無尽の関係・繋がり(これが縁です)が「わたし」を規定しているのであり、「わたし」がさまざまな関係・繋がりを規定しているのではありません。縁起・無我の思想とは他力の思想に他ならないことがお分かりいただけると思います。
 本筋にもどります。念仏が妨げられ迫害されるという事態に直面したとき、「そのところの縁つきておはします」と思うというのは、そもそも縦横無尽の関係・繋がり(縁)が「わたし」を規定していることに気づくことです。これまでは「そのところで念仏する」という縁にめぐまれていたのだが、その縁がもはやつきたのだから「いづれのところにてもうつる」のがよろしいということになる。ところが普通はそのようには考えません。これまで何ごともなく念仏してきたのが理不尽に妨害されることに怒りを覚え、どうにかしてこれまで通りここで念仏者として生きつづけられるようにしたいと思う。「わたし」がさまざまな関係・繋がりを規定するのが当然であると考えて、どうすればここで念仏しつづけられるかを思いめぐらすのです。
 そこで思いつくのが「余のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからふ」ことです。この「余のひとびと」が土地の有力者をさすのは間違いないでしょう。それぞれの土地には互いに利害の反する複数の有力者がいるものですから、念仏を妨げようとしている勢力と対立する勢力に接近して、その力を借りようとするということです。自分の力では何ともならないから他の力に頼ろうとするのですが、それも所詮「わがちから」でさまざまな関係・繋がりをコントロールしようとすることに他なりません。「余のひとびとを縁として、念仏をひろめん」というときは、縁が「わたし」を規定していることに思いを致しているのではなく、ひたすら「わたし」が縁を規定しようとはからっています。

タグ:親鸞を読む
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