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わが善き親友なり [「信巻を読む(2)」その54]

(8)わが善き親友なり

その疑問に対してぼくが答えたのはこうでした、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という「こえ」が自身のなかから聞こえてくるというのは、いわゆる「良心のこえ」ということでしょうが、自身のなかから出てきたこの「こえ」にはかならず「上げ底」がしてあります、と。つまり、一方で「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と言いながら、他方で、そんなふうに自身を見ることができることを誇りに思っているということです。「オレにはそんなふうに言うだけの良心がある」と割引きをしているのです。もっとはっきり言えば、この「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という自身の「こえ」には嘘が含まれているということです。

同じように、「大いなる力で生かされている」という気づきは自分のなかから生じるのではないかと言う人もいることでしょう。ふとそのように思うことがあるのは、自分でそのように気づいたということではないかと。その場合にもしかし先と同じ「上げ底」がしてあります(いや、この場合は「下げ底」と言うべきかもしれません)。つまり、一方で「大いなる力で生かされている」と言いながら、他方で、そんなふうに気づくことができる自分の力を自負しているということです。「大いなる力で生かされている」ことに自分の力で気づいたと言うとき、その「大いなる力」は割引かれています。そして、そのように言う人は、実際のところ「大いなる力で生かされている」という実感はないと言わなければなりません。

「大いなる力で生かされている」という気づきが正真正銘のものでしたら、それは「むこうから」やってくると言わざるをえません。あるとき気がついたらその思いのなかに包み込まれていたのです。そこから「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」という経文の真意を読み解くことができます。われらの「師」であるはずの釈迦が、「大いなる力」に気づいたものを「友」と呼ぶのは、釈迦もまた「むこうから」やってきたその気づきにとらえられたからであり、その点ではわれらと何も変わらないからです。畏れ多いことながら、釈迦とわれらは御同朋、御同行です。


タグ:親鸞を読む
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