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真理とその語り [はじめての『尊号真像銘文』(その149)]

(9)真理とその語り

 真理はひとつであり、それは弥陀の本願である、などと言えば非難の嵐が巻き起こるのではないかと言いました。たしかに、キリスト教の教えやイスラム教の教え、さらには仏教の他の宗派の教えは真理ではないと言っているのでしたら、穏やかならざる発言と言わなければなりません。しかし心配ご無用、そんな無体なことを言っているのではありません。真理はひとつですが、それをどう語るかはさまざまで、キリスト教的な語り、イスラム教的な語り、あるいは仏教の他宗派的な語りと千差万別です。そして弥陀の本願もひとつの語りに他なりません。
 ここでまた指月の譬えを持ち出しましょう。龍樹は『大智度論』で、「義によりて語によらざるべし」と言い、月を指さして教えようとするとき、人は指を見て月を見ないことがあるが、「語は義の指」であって「語は義にあらざるなり」と諭しています。この譬えの「義」を真理に、「語」を語りに置き換えますと、指を見て月を見ないというのは、それぞれの教えの語りに気を取られて、それが指している肝心の真理に目が向いていないということです。指は無数にあっても、月はただひとつであるのに、それぞれの指の違いにばかり意識が向いて、ただひとつの月がお留守になっている。
 このように救いの真理はひとつであるが、その語りはさまざまと考えることにより、悪しき相対主義に陥ることなく、しかも諸宗教が平和共存することができます。
 とはいうもののまだ疑問は残るでしょう。さまざまな語りがあると言っても、その中には見当違いのものもあるのではないか。月をさす指の中には、月ではないものをさしていることもあるのではないかということです。としますと、どの指が正確に月をさしているかを巡って争いが起る可能性があります。しかし釈迦は「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない」(『スッタニパータ』「第4、八つの詩句の章」)と言っていました。
 さてこの「争わず」という姿勢をどう考えればいいでしょう。

タグ:親鸞を読む
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