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しるし [「『証巻』を読む」その80]

(7)しるし

われらは「わたしのいのち」を生きていますが、そのままで「ほとけのいのち」に摂取不捨されていると気づくこと、これが信心を得ることであり、そしてそれが「かならず仏となるべき身」となる「しるし」がつくことです。

それがどうして「しるし」なのかといいますと、「ほとけのいのち」に摂取不捨されることにより、人格の変容が起こるからです。その前と後で、その人の人となりが変わるということです。これを親鸞は善導の「前念に命終し、後念に即生す」(往生礼讃)ということばを用い、「本願を信受するは、前念命終なり。(すなはち正定聚に入ると)。即得往生は後念即生なり。(即の時必定に入ると)」(愚禿鈔)とあらわしています。「前念命終、後念即生」は、善導においては臨終のときに即ち往生することを意味しますが、親鸞はそれを「本願を信受する」ときのこととするのです、そのとき正定聚という新しい人格が生まれるのであると。

「本願を信受する」とき「ほとけのいのち」に摂取不捨されることが「かならず仏になるべき身」となる「しるし」であると述べてきましたが、この摂取不捨は「気づき」にすぎません。「ほとけのいのち」に摂取不捨されたと「気づく」だけですから、それは目に見える「しるし」ではありません。また人格の変容が起こると言いましたが、これも「こころ」の変容ですから、目に見えるわけではありません。誰かがそんな「しるし」はどこにあるのかと尋ねたとしても、「ほら、ここに」と指し示すことはできません。「あなたが本願を信受したときに、はじめて分かります」としか答えることはできません。本願信受も摂取不捨も入正定聚もみな「気づき」に他なりませんから、それを証明することはできない(その「あかし」はない)ということです。

しかし本人にとっては、「ほとけのいのち」に摂取不捨されたことが「かならず仏となるべき身」となった「しるし」であることはもうこれ以上確かなことはありません。これまでの自分ではない新しい自分となったのですから。


タグ:親鸞を読む
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