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「親鸞とともに」その58 ブログトップ

はじめに(6) [「親鸞とともに」その58]

第6回 コンプレクスということ

(1)はじめに

劣等感と優越感は一対で、劣等感を持つ人はかならず優越感も持っており、逆に、優越感を持つ人は、かならず劣等感も持っています。劣等感だけ、優越感だけということはありません。英語ではcomplexで、無意識的な感情の複合体という意味ですが、そのなかに劣等感(inferiority complex)と優越感(superiority complex)の対があります。そのときどきの相手により、その人を自分より上だとみなすときは劣等感となり、下だとみなすと優越感となるということです。このようにコンプレクスのもとは人と比較し、優劣を競いあうことにありますが、問題はそのことによって人を妬んだり、反対に人を見下したりすることです。人と比較して優劣がついても、それを何とも思わなければいいのですが、そうはいかないのが人間で、苦しみの大半はここに淵源するのではないでしょうか。コンプレクスから解放されたら、どれほど長閑に暮らせることだろうと思います。

われらは否応なく「わたしのいのち」を生きており、そして「わたしのいのち」はそれぞれ異なり、どれ一つとして同じものはありません。そしてその違いは生きる条件の差となってきますから、そこから劣等感=優越感が生じてくることになります。優越感をもつ場合は、高慢な態度をとって人を嫌な思いにさせることになりますし、劣等感をもつことになりますと、それによって自分自身がいたく苦しまなければなりません。たとえば虚弱体質の人は、強健な身体を持つ人を見るにつけ、どうして自分はこんなに身体が弱いのかと嘆き苦しむことになります。不細工な顔の人は、整った顔の人を見るにつけ、どうして自分はこんなに不細工な顔に生まれついたのかと嘆き悲しむことになります。

こうした劣等感から抜け出そうとして人がよく取るのは、他のことで優越感をもてるようにすることです。あることでは人に劣るが、別のことで人より優れるようにして、劣等感を優越感でカバーしようとするのです。これはしかし劣等感=優越感の枠の中での解決にすぎず、コンプレクスそのものを解消することではありません。ではコンプレクスそのものから解放されることはないのでしょうか、もう一度コンプレクスが起こる現場に立ち返りましょう。


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