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もろもろの如来と等し [『教行信証』「信巻」を読む(その121)]

第12回 現生の益

(1) もろもろの如来と等し

信楽釈がつづきます。『涅槃経』のあと『華厳経』から引用されます。

『華厳経』にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものは、すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。

またのたまはく、「如来、よく永く一切衆生の疑を断たしむ。その心の所楽(願うところ)に随ひて、あまねくみな満足せしむ」となり。

親鸞は『浄土三部経』及びその異訳以外では『涅槃経』の引用が多く、そして『華厳経』からもよく引きます。それは、親鸞にはこれらの経典からも浄土の教えが聞こえてくるからに他なりません。一つ目の文は、普通に読みますと「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」となりますが、親鸞は上のごとく「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものは、云々」と読んでいます。すぐ気がつきますように、親鸞はこの文を第十八願成就文「その名号を聞きて、信心歓喜せん」と重ね合わせて読んでいるのです。そして『華厳経』の「この法」を「その名号」に転換しているのです。

そしてこの文にある「もろもろの如来と等し」という文言が親鸞の眼を射たのに違いありません。

十八願成就文では、名号を聞いて信心歓喜したものが「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と説かれていますが、それがこの文では、この法を聞いて信心歓喜したものは「すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」となっています。「不退転に住せん」とは「かならず仏となる」ということですから、「すみやかに無上道を成じ」とぴったり符合します。そしてこの文は「すみやかに無上道を成じる」ことは取りも直さず「もろもろの如来と等し」いことだと言いますから、二つの文をミックスしますと、名号を聞いて信心歓喜した人は「如来と等し」ということになり、これが親鸞に大きな感銘を与えたと思われます。


タグ:親鸞を読む
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