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賢善精進の相 [『歎異抄』ふたたび(その108)]

(9)賢善精進の相


このことばは善導の『観経疏』に出てくるもので、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ(不得外現賢善精進之相内懐虚仮)」とあります。これは『観経』に出てくる「至誠心」すなわち真実の心について注釈することばですが、親鸞はこれを「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」と読んでいます(『愚禿鈔』)。一見したところでは、どちらの読みでもそれほど違わないように思えるかもしれませんが、しかし親鸞がこのように読むところに彼独自の感性がはっきりあらわれていると言えます。


「外に賢善精進の相と現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」ですと、われらはともすると内と外が背反し、外には立派な形を見せていながら、心の内には嘘偽りが満ちていることがあるが、内が真実の心になってはじめて至誠心と言える、という意味です。「内に虚仮を懐くことを得ざれ」と命じるということは、われらには内に真実の心を持つことができるということです。ところが「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」となりますと、われらには薬にしたくても真実の心などというものはどこにもないのだから、外に立派な姿を見せるのではない、それは真っ赤な嘘である、という意味になります。これが親鸞的な感性です。


先回りになりますが、後序に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」という親鸞のことばが紹介されています。われら煩悩具足の凡夫のどこを探しても「まこと」などというものはなく、「みなもつてそらごとたはごと」であるというのですが、ここにも親鸞的感性がくっきりと顔を出しています。何か善きことをなそうとしてなすことができたとしても、それは「わがこころのよくて」ではなく、たまたまそのような業縁があったからであり、逆に「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と言うべきです。


そのような「みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」われらをそのままで弥陀の本願は救ってくださるのであり、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なればすくはれがたしとおもふべき」と言わなければなりません。


                                                 (第11回 完)



タグ:親鸞を読む
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