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アートマンの考察 [『ふりむけば他力』(その97)]

(6)アートマンの考察

 行為主体と行為の二つを切り離してしまうのは、われらのことばが分離の構造をしているからです。すなわち、まず主語として行為主体があり、しかる後にそれがある行為をなすという述語がつづく。このようにことばの構造上、行為主体と行為が切り離されていることから、実際にそうなっているように思い込んでしまう(囚われてしまう)のであり、そしてそこからさまざまな難題が生まれてくるのです。この辺りからいよいよ本命の「われ」の問題に入ってきます。それが『中論』第18章「アートマン(われ)の考察」ですが、ここは少し丁寧に見ておきましょう。
 龍樹はこう言います、「我(アートマン)がないときに、どうして〈わがもの〉(アートマンに属するもの)があるだろうか。我と〈わがもの〉とが静まる故に、〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識を離れることになる」と。ここで「我と〈わがもの〉が静まる」といいますのは、「われ」や「わがもの」はわれらがことばとして仮構した観念にすぎないことに気づき、それらに囚われなくなる、という意味に違いありません。龍樹がこう言ったとき、彼の脳裏にはたとえば『ダンマパダ』の釈迦のことば、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」が浮んでいたに違いありません。
 ところがそれにつづいて龍樹はこう言います、「〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識から離れたものなるものは存在しない。〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものを見る者は、[実は]見ないのである」と([]内は、訳者・中村元氏の補足)。これは「われ」や「わがもの」という観念がことばとして仮構されたものにすぎないと気づいたとしても、だからといって「われ」という観念と「わがもの」という観念から離れることはできないということです。ところがしばしば「われ」という観念、「わがもの」という観念から離れることが解脱であり、仏教はそれを説くと言われます。龍樹はそれは誤りであり、われらは「われ」や「わがもの」の観念は仮構されたものにすぎないと気づいたとしても、依然としてそれらの観念から離れることはできず、それらの観念をもって生きるしかないと言っているのです。仮構された観念であると気づきながら、その仮構された観念をもって生きるしか道はないのです。

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