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第5回、本文3 [「『証巻』を読む」その47]

(6)第5回、本文3

あけましておめでとうございます。「初春や 今日一日の ありがたさ」 今年もよろしくお願い申し上げます。

七地までの未証浄心の菩薩と八地以上の菩薩の違いを見てきましたが、しかしその違いが重要な問題ではなく、ここで言われているのは、未証浄心の菩薩も「仏の本願力を観ずれば」すなわち「かの仏を見たてまつれば」、「畢竟じて平等法身を得証す」ということです。七地と八地の間の大きな壁も、本願力に遇うことができさえすれば、かならず乗りこえられるということ、ここにこの段の眼目があります。そして本願力に遇うということは弥陀の浄土に往生することに他なりませんから、本願の信を得て往生することができれば「畢竟じて平等法身を得証」し、「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」(本文1)ことになります。

しかし、本願力に遇うことができれば、未証浄心の菩薩も浄心以上の菩薩と「等しい」というのは伝統的な菩薩修道の教えからすれば途方もないことと言わなければなりません。菩薩道の階位は一段一段上がっていかなければならず、それを一気に跳び越えるなどということはあり得ません。そこで次の疑問が出てきます。

問うていはく、『十地経』(『華厳経』「十地品」で、独立した経典として扱われます)を案ずるに、菩薩の(しん)(しゅ)階級(階位が進むこと)、やうやく(だんだんと)無量の功勲あり。多くの劫数(こうしゅ)()。しかうして後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と、身等しく法等しきやと。

答へていはく、畢竟はいまだすなはち等しといふにはあらずとなりと。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆゑに、等しといふならくのみと。

「畢竟じて」ということばに焦点が当てられます。これは「ついにはかならず」という意味であり、「そのときただちに」ではないということです。阿弥陀仏を見ることができた「そのときただちに」上地の菩薩と等しくなるのではなく、「ついにはかならず」上地の菩薩と等しくなるのだというのです。


タグ:親鸞を読む
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