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プールヴァ・プラニダーナ [「『正信偈』ふたたび」その15]

(6)プールヴァ・プラニダーナ

法蔵菩薩が登場することなく、はじめから阿弥陀仏ありきで、その阿弥陀仏に大いなる願いがあるとしますと、どのような印象になるでしょう。これはキリスト教やイスラム教と同じ一神教の構図ではないでしょうか。一神教においては、はじめに神ありきであり、神はあらゆるものから超越しています。神は世界を創造したのですから、世界から超越した存在でなければなりませんし、そしてその意思(願い)もわれらから超絶していて、われらがそれをあれこれ思いはかることはできません。われらはただただその絶対的な意思の前にひれ伏し、それにしたがうしかありません。

神とわれら人間は超絶しています。

浄土の教えはそうではありません。はじめに登場するのは法蔵菩薩という一人の人間であり、その人間が懐いた大いなる願いから話がはじまります。そしてそれが阿弥陀仏すなわち「無量のいのちの仏」の願いとなるのですが、その本は一人の人間の願いであるということ、ここに浄土の教えの特質があります。前に言いましたように、本願とは「プールヴァ・プラニダーナ」すなわち「本の願い」という意味で、阿弥陀仏の本である法蔵菩薩の願いということですが、それは「ほとけの願い」の本は、人間の「わたしの願い」であるということに他なりません。

「ほとけの願い」(本願)は「わたしの願い」から超絶しているどころか、本はひとつであるということです。

われらは日々さまざまな願いをもって生きています。われらが生きることはそれぞれがそれぞれの願いをもつことであり、その願いを実現すべくけなげに励むことです。そしてそのなかで一喜一憂しているのですが、そのときわれらには「わたしの願い」しかありません。ただひたすら「わたしの願い」を生きているのですが、あるときその「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」がひっそりと息づいていることにはっと目が覚めることがあります。この目覚めは自分からはおこりません、どこかから否応なく目覚めさせられるのです。この目覚めをもたらすのが「南無阿弥陀仏」の「こえ」です。「ほとけの願い」(本願)は「南無阿弥陀仏」の「こえ」となってわれらのもとにやってきて、「ほとけの願い」に目覚めさせるのです。「重ねて誓ふらくは名声十方にきこえんと」とはそのことです。


タグ:親鸞を読む
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