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南無阿弥陀仏とは [正信偈と現代(その192)]

(5)南無阿弥陀仏とは

 法然の言うように、第18願には「南無阿弥陀仏を称えれば往生できる」と書いてありますが、それだけでは「なるほどそう書いてあるが、そう書いてあると言ってもなあ」という感じで、どうして南無阿弥陀仏を称えることが往生することになるのか肚にストンと落ちません。法然は南無阿弥陀仏には仏の徳がつまっているのだ、それに称名はどんな人でもできることだから平等に往生できるのだと言うのですが、なおも「そう言われてもなあ」とすっきりしない。そもそも南無阿弥陀仏とは何なのか、これがはっきりしない。そこで親鸞はこう言うのです、「それは第17願に書いてある」と。
 南無阿弥陀仏とは、諸仏が弥陀の本願をほめたたえて南無阿弥陀仏と称える、その声のことだというのです。南無阿弥陀仏はわれらが称えるより前に、諸仏が称える南無阿弥陀仏の声が向こうから聞こえてくる。
 思えば長いあいだ南無阿弥陀仏はわれらが称えるものだと思い込んでいました、それ以外にあるはずがないと(正直なところ、ぼくは「行巻」に諸仏称名の願が取り上げられていることが腑に落ちませんでした、われらが称名するのに、どうして諸仏の称名なのか、と)。その上で、どういうわけで南無阿弥陀仏と称えることで往生できるのか、どこにその根拠があるのか、と思い悩んできたのです。しかし親鸞は、われらが南無阿弥陀仏を称えるのは、諸仏が南無阿弥陀仏と称える声が聞こえてくるからであることを教えてくれました。諸仏の南無阿弥陀仏の声が聞こえて、「あゝ、うれしや」という思いから、こだまのようにわれらの口から南無阿弥陀仏の声が出てくるのだと。
 親鸞は第18願の成就文に目を付けたのです。「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて信心歓喜し、ないし一念せん)」。「その名号」とありますのは、第17願の諸仏称名を受けてのことです。諸仏が称えるその名号を聞いて、ということです。諸仏の称名がわれらの聞名であり、それがわれらの称名となるということで、第17願と第18願はひとつに融合するのです。

タグ:親鸞を読む
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