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上宮皇子方便し [親鸞の和讃に親しむ(その110)]

(10)上宮皇子方便し

上宮皇子方便し 和国の有情をあはれみて 如来の悲願を弘宣(ぐせん)せり 慶喜奉賛せしむべし(第91首)

太子手立てを尽くしては 日本の民のこと思い 仏の誓いのべたもう よろこばずにはおられよか

聖徳太子は救世観音の化身として和国に生まれ、「如来の悲願を弘宣せり」と詠われます。太子は日本に仏教を根づかせた人(第90首に「和国の教主」とあります)であることは確かであっても、弥陀の悲願を弘めたとは言えないように思われますが、親鸞としては、太子が観音の化身である以上(観音は弥陀の脇侍です)、本願念仏の教えを弘めた人であることは疑いありません。親鸞にとって「念仏成仏これ真宗(真実の教え)」(『浄土和讃』大経讃)であり、仏教はすなわち念仏ですから、聖徳太子は「如来の悲願を弘宣せり」ということにならざるをえません。

親鸞が太子のことばとされる「世間は虚仮、ただ仏のみこれ真なり」を知っていたかどうかは分かりませんが、それとピッタリ符合することばを残しています。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』後序)と。もし親鸞が太子の「世間は虚仮」を知らなかったとしますと、この符合は驚くべきことと言わなければなりません。そしてこの事実は太子の「世間は虚仮」ということば、そして親鸞の「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ということばにこそ、仏教の最深の真理があるということを意味するのではないでしょうか。

われらに「世間は虚仮」とか、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」とか言うことはできません。前にも触れましたように、もしわれらがそのように言うとすれば、そう言うこと自体が虚仮であることになり、何ともならないパラドクスに巻き込まれます。このことばはわれらのことばではなく如来の真実のことばであり、われらはそれを如来から突きつけられてただうな垂れるのみです。それが「ただ仏のみこれ真なり」ということ、「念仏のみぞまことにておはします」ということです。

(第11回 完)


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