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遇うて空しく過ぐるものなし [はじめての『尊号真像銘文』(その67)]

(14)遇うて空しく過ぐるものなし

 まず「遇うて空しく過ぐるものなし」に注目したいと思います。親鸞はここで「遇う」ということを「信ずる」ことに等値しています。それは『一念多念文意』のなかで「遇う」について、「まうあふといふ。まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり」と述べていることからも明らかです。しかし「遇う」ことと「信ずる」ことはどのような意味でひとしいのか、ここには考えなければならないことがたくさんありそうです。
 遇という字を辞書で調べますと、「いく」を意味する之繞(しんにゅう)と、「たまたま」を意味する禺をあわせて、思いがけず道で「あう」ことをあらわすと書いてあります。思いがけず「遇う」にも、すでに知っている人と偶然「遇う」場合(旧友とたまたま遇うようなとき)と、まったく未知の人とばったり「遇う」場合(まだ見ぬ恋人に遇うようなとき)があります。前者はままあることですが、不思議なのが後者です。見たことのない人にどうして「遇う」ことができるのか。
 でも、見たことのない人に「遇う」ことがあるのは厳然たる事実です。はじめて遇う人なのに、「あゝ、この人だ、この人を待っていたのだ」と思う。そのとき「遇うて空しく過ぐるもの」など一人もいないことがそのことの何よりの証拠です。「空しく過ぐるものなし」を親鸞は「むなしくここにとどまらず」と言い換え、また『一念多念文意』では「むなしく生死にとどまることなし」と解説してくれます。まだ見ぬ人と遇うまでの生活と、遇った後の生活とではまったく違っているということです。
 ここでもう一度「二つの真理」を持ち出したいと思います(11)。「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」です。前者の代表としてピタゴラスの定理を上げましょう。そして後者は言うまでもなく弥陀の本願です。弥陀の本願は「こちらからゲットする」ものではなく、「むこうからゲットされる」ものであるということは、弥陀の本願は(こちらから出かけていって)「会う」ものではなく(むこうからやってきて)「遇う」ものであるということに他なりません。
 さていま考えたいのは、「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」は、それぞれどのようにして証明されるか、ということです。

タグ:親鸞を読む
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