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浄土の聖衆 [はじめての『高僧和讃』(その31)]

(14)浄土の聖衆

 次の二首は浄土の聖衆(しょうじゅ)について詠います。

 「如来浄華(じょうけ)の聖衆は 正覚のはなより化生して 衆生の願楽(がんぎょう)ことごとく すみやかにとく満足す」(第14首)。
 「蓮華のなかに化生して、さとりの甘露えることは、衆生の望みことごとく、直ちに満たしあまりなし」。

 「天人不動の聖衆は 弘誓(ぐぜい)の智海より生ず 心業の功徳清浄にて 虚空のごとく差別(しゃべつ)なし」(第15首)。
 「浄土に住まう天・人は、弘誓の智海から生まれ、こころは清く不動にて、虚空のごとく違いなし」。

 前にこう言いました、『浄土論』を読んでいるうちに、浄土や弥陀や聖衆を讃嘆している天親はどこにいるのか、このさき浄土へ往って弥陀や聖衆におめにかかろうとしているのか、それともすでに浄土にいて弥陀や聖衆を目の当たりにしているのかが分からなくなると(9)。この二首で言いますと、天親は聖衆を仰ぎ見ているのか、それとも天親はもうすでに聖衆のひとりではないのか、ということです。浄土教の伝統では、浄土へ往くのも、弥陀や聖衆におめにかかるのもいのち終わってからです。で、その常識で読んでいきますと、いつの間にか、ここで言われていることはみな「今生ただいま」のことではないかと思えてくるのです。
 改めて「この世界」と「かの世界」の関係に思いをはせますと、「かの世界」とは言うものの、決して「この世界」とは別のどこかにあるわけではありません。ぼくらは紛れもなく「この世界」の上に立っていますが、その足下には「かの世界」が広がっているのです。としますと、いのち終わってから浄土へ往き、弥陀や聖衆におめにかかるのではなく、それらはみな「今生ただいま」のことです。

タグ:親鸞を読む
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