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二河白道の譬え [『教行信証』「信巻」を読む(その104)]

(8)二河白道の譬え

このように、まず自力無功の気づき(機の深信)があって、本願他力の気づき(法の深信)があるといえます。自力無功の気づきがないところに、いきなり本願他力が持ち出されても、われらの側にそれを受け入れる準備ができていないということです。

あの「二河白道の譬え」はその辺りの消息を分かりやすく教えてくれます。孤独な旅人は群賊や悪獣に追われて荒野を西に向かいますが、その前方を水火の二河に阻まれます。その河にはわずか4・5寸の幅の道がありますが、とても渡れそうにありません。そのとき旅人は思います、「まさしく到り回(かえ)らんと欲(おも)へば、群賊・悪獣、漸々(ぜんぜん、次第に)に来り逼(せ)む。まさしく南北に避(さ)り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競(きお)ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去(ゆ)かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕(だ)せん」と。かくして「いま回らばまた死せん、住(とど)まらばまた死せん、去かばまた死せん」という窮地(これを三定死と言います)に陥るのです。

これはまさに自分の力では如何ともしがたいという自力無功を思い知らされる事態と言わなければなりません。そのときです、東の岸に人の「こえ」がします、「きみただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なけん」と。そしてまた西の岸に人の「こえ」があります、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と。前者が「釈迦発遣のこえ」で、後者が「弥陀招喚のこえ」ですが、「いま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」という状況に置かれていた旅人には、まさに甘露の「こえ」として身心に染み渡ったに違いありません、この「こえ」に乗じて旅人は「決定して道を尋ねてただちに進む」ことになるのです。

本題に戻りますと、まず「われらの心は虚仮諂偽である」ことが言われ、次いで「法蔵菩薩の心は清浄で真実である」ことが言われるのは、そうすることにより法蔵菩薩の誓願が迫真性をもってわれらの身にやってくるからに他なりません。いきなり法蔵菩薩の誓願を持ち出されますと、ただのお伽噺に終わってしまうおそれがあるということです。


タグ:親鸞を読む
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