SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その74 ブログトップ

偈文2(第8回、曇鸞) [「『正信偈』ふたたび」その74]

(5)偈文2(第8回、曇鸞)

曇鸞讃の後半6句です。

往還回向由他力 正定之因唯信心

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃

必至無量光明土 諸有衆生皆普化

往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。

惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。

かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。

曇鸞大師は『浄土論註』において、次のように言われます、「往相の回向も還相の回向も弥陀の本願力によります。往生浄土の身と定まるのは、ただ信心によってです。

煩悩に染まった凡夫も、信心を得さえすれば、この生死の迷いがそのままで涅槃であることに気づかせていただけるのです。

そして浄土に往生できましたならば、一切の衆生を救うはたらきをさせていただくのです」と。

まずは第一句について。親鸞は『教行信証』の第一巻「教巻」のはじめに「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と表明していますが、それがここで言われていることに当たります。如来の回向(他力の回向)に往相と還相があるということですが、これは『浄土論』において「入」と「出」ということばで言われていたのを、曇鸞が「往」と「還」ということばに言い替えているのです。すなわち浄土に「往く」(「入る」)相と、浄土から「還る」(「出る」)相の二つです。浄土に往くだけでなく、浄土から還ることがあり、その二つが一体のものとして如来から回向されているということです。

浄土から還るとはどういうことかにつきましては第五・六句で考えるとしまして、浄土に往くことは他力によるということをあらためて確認しておきましょう。あらためてと言いますのは、往相は他力によるとは、すぐ前に「報土の因果誓願に顕す」と言われていたことと別ではないからです。浄土へ往くとは、こことは別のどこか(アナザーワールド)に往くことではなく、「いまここ」で本願力のはたらきを生き生きと感じ、「ほとけのいのち」のふところのなかに摂め取られ、生かされていることに思い至ることですが、それは自力ではなく他力によるということ、これです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その74 ブログトップ