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「わたしには子がある」 [「親鸞とともに」その4]

(4)「わたしには子がある」

「われ思う、ゆえにわれあり」とは、何かを思うとき、そこにはおのずから「わたし」が控えているということであり、まず「わたし」なる主体がいて、その「わたし」がすべての起点となっているということではありません。ところが「わたし」があらゆることの第一起点であるかのように理解され、これが近代哲学の主要な潮流となっていきました。同じように、まず生きんかなとする「わたし」がいて、その「わたし」が「生きる」ことのすべてを主宰しているということではありません。ところが「わたし」が「わたしのいのち」の最終根拠であるかのように理解されるようになりました。何ごとも「わたし」あってのものだねという受けとめです。

ここで仏教の「無我」を思い起こしておきましょう。これはもともと我執(「わたし」への囚われ)の否定を意味します。我執とは何であるかを示すことばを『原始経典』から上げておきますと、たとえばこうあります、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『ダンマパダ』第5章)。「自己は自分のものである」と執着することが我執の根本であり、そこから「子は自分のものである」、「財は自分のものである」という執着が生まれてくると言われます。

「自己は自分のものである」とは、「このいのちはわたしのいのちである」と思い込むことであり、そこから「これはわたしの子である」、「これはわたしの財である」という執着が生じるということです。ここで注意が必要なのは、「わたしのいのち」とか「わたしの子」とか「わたしの財」というときの「わたし」そのものが否定されているのではないということです。われらの生活は否応なくこの「わたし」を前提として成り立っています。ためしに「わたしのいのち」や「わたしの子」を否定したらどうなるかと少しでも考えてみたら、もうこれがあらゆることの土台となっていることが分かります。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」は抗いようもなく真理であるということです。われらが何かを思えば、そこにはちゃんと「わたし」がいます。


タグ:親鸞を読む
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