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安楽浄土をねがひつつ [親鸞の和讃に親しむ(その22)]

(2)安楽浄土をねがひつつ

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがひて 辺地懈慢(へんちけまん、方便化土)にとまるなり(第67首)

浄土往生ねがいつつ、他力の信をえぬひとは、仏の智慧をうたがって、仮の浄土にすえおかる

安楽浄土を願っているということは、魂の救いを求めているということですが、そうでありながら、悲しいかな「他力の信」がなく「仏智不思議をうたが」いますと(この二つは別のことではありません)、いつまでも魂の救い(往生)はえられないと詠います。さてしかし「他力の信」がなく「仏智不思議をうたが」うとはどういうことを指しているのでしょう。それは、魂の救いは「ここではない何処か」にあり、それを自分で探し求めなければならないと思っているということです。ぼくの頭に浮ぶのはあのチルチルとミチルの兄妹です。

彼らは青い鳥という名の幸福を求めて様々な世界を彷徨い歩くのですが、どこにも見つからず、悄然として家に戻ってくると、何とそこにはもうとうの昔から青い鳥がいたというお話です。本願他力という救いは「いまここ」にあるにもかかわらず、それに気づかずに(これが「他力の信」がなく「仏智不思議をうたが」うことです)、「ここではない何処か」にあるはずと探し歩く、これが「自力作善のひと」(『歎異抄』第3章)です。その人は「ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」(同)と言わなければなりません。それが「辺地懈慢にとまるなり」ということです。仮の宿にとまるしかないのです。

救いは「いまここ」にしかないということは、言い換えれば、「もうすでに救われている」ということです。これから何かをして救いを手に入れるのではなく、このままでもう救われているということ。「おいおい、いま救いがないと思うから、それを求めているのでないか、もうすでに救われているなら、それを求めることなんかないよ」という抗議の声には、こう答えましょう。「あなたは“あなたのいのち”であるままで、もうすでに“ほとけのいのち”を生きています。なのにあなたはそのことに気づかず、どこかにあるはずの救いを求めているのです」と。


タグ:親鸞を読む
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