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2013年10月19日(土) [はじめての『教行信証』(その83)]

(4)二河白道
 かなりまわり道をしてしまいましたが、機の深信の門を通ってはじめて法の深信に出ることができることを述べてきました。
 このことを善導大師は有名な比喩で明らかにしてくれます。二河白道の喩えです。これは前に一度ご紹介したことがありますので、ここではごくかいつまんでお話しますが、要点は機の深信と法の深信との関係です。
 はるかな道のりを西に向かって旅してきた人の前に河が立ちはだかります。この河は一風変わっていまして、「一つにはこれ火のかは、みなみにあり。二つにはこれ水のかは、きたにあり。二河おのおのひろさ百歩、おのおのふかくしてそこなし。南北にほとりなし」という具合です。
 そしてその二河の接するところに「ひとつの白道あり。ひろさ四五寸ばかり」ですが、北からは「波浪まじわりすぎて道をうるお」しますし、南からは「火焔またきたりて道をやく」と言いますから、到底渡れそうにありません。これはいかんと戻ろうとしても群賊や悪獣や毒虫が襲い掛かってきて、いよいよ進退窮まります。
 「すなはちみづから思念すらく、われいまかへるともまた死せん、住するともまた死せん、ゆくともまた死せん。」
 もう如何ともしがたい。これが機の深信です。水と火の二河とはぼくらの煩悩を譬えています。水の河は貪りや執着の心、火の河は怒りや憎しみの心を譬えているのです。ぼくらは日々貪りと怒りの煩悩に翻弄され、そこから尽きることのない苦しみを与えられています。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」です。宿業の歴史の中を流されてきたのです。「地獄は一定すみかぞかし」と言わなければなりません。

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