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諸仏護念 [「信巻を読む(2)」その57]

(11)諸仏護念

さて『涅槃経』からの二つの文は、諸仏世尊が真の仏弟子をつねに「現に前にましますがごとく」に見まもってくださるということで、「諸仏護念の益」について述べていますが、この諸仏世尊とはすなわち「真実のことば」に他なりません。われらはいつも真実のことばに見まもられていますから、この娑婆世界を安心して生きることができるのです。真実のことばは一旦われらの心にやってきたら、もう離れることはありません。木に点いた火は木を離れることがないように、真実のことばはつねにわれらの傍にいて、われらを見まもってくれるのです。

『安楽集』からの引用の後半です。

『大智度論』によるに、三番の解釈(げしゃく)あり。〈第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ重くするところ、ただ仏世尊なり。このゆゑにまさにつねに念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありて、みづからいはく、《われ曠劫よりこのかた、世尊われらが法身、智身(報身に当たる)、大慈悲身(応身に当たる)を長養したまふことを蒙ることを得たりき。禅定・智慧・無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りてつねにその王を念(おも)ふがごとし》と。第三に、もろもろの菩薩ありて、またこの言をなさく、《われ因地にして悪知識に遇ひて、波若(はにゃ、般若、仏の智慧)を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を経て余行を修すといへども、いまだ出づることあたはず。後に一時において善知識の辺(ほとり)によりしに、われを教へて念仏三昧を行ぜしむ。その時に、すはなちよくしかしながらもろもろの障、まさに解脱することを得しめたり。この大益あるがゆゑに、願じて仏を離れず》〉と。乃至 『大経』にのたまはく、〈おほよそ浄土に往生せんと欲はば、かならず発菩提心を須(もち)ゐるを源とす。いかんとなれば、菩提はすなはちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲はば、この心広大にして法界に周遍せん。この心長遠にして未来際(みらいさい)を尽す。この心あまねくつぶさに二乗の障(二乗は声聞と縁覚。自利のみを求める小乗の障りをいう)を離る。もしよく一たび発心すれば、無始生死の有輪を傾く〉と。乃至 『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉」と。以上抄出


タグ:親鸞を読む
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